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は従来の日本では考えられなかった、国民の意識の変化である。
この事を裏づけるように、各地の陸海軍工廠でストライキが勃発し、足尾・別子・生野等の銅鉱山にもストが
広がり、尾去沢鉱山では大正三年、労働運動史上に特筆される大ストライキが起っている。
こうして世上騒然たる中、欧州留学中だった吉野作造が帰国した。吉野は欧米各地における民主主義思想の洗
礼を受けており、東大助教授に就任後の大正五年一月、雑誌中央公論に「憲政の本義を説いて其有終の美を済す
の途を論ず」を掲載し、一般民衆の利益・幸福ならびにその意義に重きを置く政治の必要性を力説した。そして
新しい民主主義の政治とは、一般民衆のために、民衆の意志による政治であることも説いている。しかし吉野は、
日本は立憲君主国であるとしてデモクラシー=民主主義の言葉をさけ、民主の意志を本とし民衆の幸福を重んず
る民本主義としたのである。これは社会改造を意図しない不徹底さがあったが、この意見は当時のジャーナリズ
ムに支持され、多くの文化人の賛同を得ている。
方、第一次世界大戦によって日本の経済界はかつてない好況となったが、それと同時に諸物価が高騰し又ク
社会不安がおとずれ、小作争議も飛躍的に増大した。大正七年のシベリア出兵が失敗し、米商人が米の買占めや
売り惜しみをしたため米価は暴騰し、全国に米騒動が広がった。この騒動により寺内内閣は崩壊し、原政党内閣
の出現となったが、このことは庶民に団結の力を教え、政治の上で新しい勢力を台頭させたのである。
青年会の育成
政府はこの事態を重視し、内務・文部両省はその対策として、これまで村落若者組の延長で
のった青年会を解散し、町村一本の青年団に改組して、思想健全な中堅国民の育成を目ざす
こととした。両省は各道府県内務部に訓令し、その促進を指示した。県内務部では直ちに各郡長に命じ、町村長
こととした。両省は各道府県内務部に訓令し、その促進を指示した。県内務部では直ちに各郡長に命じ、町村長