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けている。

曲田慶吉は大湯の生れ、明治四二年秋田師範学校を卒業し、切石小学校長から花輪・小坂小学校の首席訓導と

して活躍し、昭和四年錦木小学校長となった。在職中『錦木村郷土史』『鹿角郷土誌』』『伝説の鹿角』を著作し

鹿角郷土教育の第一人者となった。『鹿角郷土誌』は範を内藤十湾の『鹿角志』にとったが、その真摯な研究に

師範学校長和田喜八郎は、類書中の白眉であると激賞している。昭和五年九月の東伏見宮大妃殿下の御成りに際

しては、錦木塚伝説を御説明申し上げる栄を担っている。

共働舎の教育

辰村の自力更生運動の一環としての郷土教育は昭和初期の一大教育運動となったが、その実

践の一つとし斎藤義一の共働舎の教育があげられる。

呂麓小学校校庭の北端に斎藤の住宅があった。その南半分は大工の建物としては少し粗末な奇妙な二階建となっ

ていて、板壁に大きく「共働舎」と墨書されていた。これは斎藤が自分で製材所から材料を購入し、全部自分で

建築した教育所である。

宮麓地区は農村不況の典型的な地区で、大部分の土地は花輪・谷内の大地主の小作地であった。昭和三年三日

母校宮麓小学校長となった斎藤は「真の人間形成の教育をするには、学校で時間割にはまった授業をやっただけ

とは駄目だ。児童生徒と拮据寝食を共にして所謂吉田松陰式の教育をするのでなければ、人格の立派な人物養成

は出来ない」として、自分で増築した八畳二間に高等科生徒を三~五名宿泊させ、修養団式・石川理紀之助式の

教育を施した。

こうした教育はとかく誤解を招きやすいので、まず職員全員の一夜講習会から始めた。「和ハ万事之本」の大