テキストを表示
を期したものである。
昭和六年には天神祭の行事はすっかり軌道に乗り、第二区学事会の学校は洩れなく参加し、学芸を競演した。
展覧会も盛大で区内の学校ばかりでなく郡内一円から賛助出品があったといわれている。賞状・賞品は立山の出
費で賄われ、引率教員や来賓等には昼食が出されたが、これも小学校理科室を食堂兼調理場に充て、立山家出入
の婦人達が忙しく働くことが常であった。
立山はこのほか養蚕や桑園の改良を指導し、昭和一〇年代までその桑園が上野台地に点在していた。さらに農
事講習会を開催し、立山・内藤両家の小作人組合を設立して農事講習を行い、また森崎、瀬田石、荒川の耕地整
理を実施して、郡の農地改良の先駆となっている。立山文庫を中心とした立山弟四郎の文化活動は、単に教育的
な面ばかりでなく産業の振興など広範に及んだのである。
育英事業
鹿角の育英事業の歴史は古く、明治二〇年に鹿角から東京へ遊学していた有志の会・鹿角会が
病気や不時の失費の際の相互扶助の目的で援助しあった事に始まる。鹿角会が鹿友会に発展し
た同二四年一二月の総会において、会則の一部を改正し積立金を育英に充てることとなった。これは幹事だった
内藤虎次郎(
南
湖
)と石川伍一の提案によるものだった。ちなみに第一回の貸費生となったのは、第一高等学校か
ら東大法科に進んだ川村竹治である。
またこの他、毛馬内の有志によって設立された木柝会があった。この木柝会の成立は、毛馬内の地主の人々が
大阪藤田組へ出向いて行った小坂鉱山煙害交渉の際の費用が基金となっているので、やや煩瑣ながら次に述べて
みる。明治四〇年小坂鉱山の東洋一と称された大煙突の完成により、昼夜をとわずはきだされる亜硫酸ガスは附