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近一帯の農作・山林に壊滅的な損害を与えた。小坂・七瀧・毛馬内の農民は煙害賠償期成同盟会を組織し鉱山側
と交渉したが、取り合われなかった。農民の多くが鉱山に雇傭される労働者でもあったため、あまり強い事が言
えず交渉は不徹底でもあった。
七滝村の農地の大部分は毛馬内の地主の小作地であった。富裕な地主達は初めは歯牙にもかけなかったが、小
作料が全然納入されなくなると重い腰をあげ、毛馬内地主会が同盟会に参加し交渉を行った。鉱山側もその稼行
地が地主用地を借りたものである関係で、余り冷たい対応では済まなくなり交渉に応じたが、現地ではなかなか
解決しなかったため、交渉は大阪の藤田組の本部で続けられることとなった。
大阪へ交渉のため出張したのは山本修太郎、勝又次郎、石川正治、豊口一蔵である。交渉が難航すると、四人
は本部に近い旅館に腰を据え長期交渉の構えを見せた。藤田組も借地の返還を求められる懸念もあり、交渉の斡
旋方を当時京都帝国大学教授で令名の高かった内藤湖南に依頼した。湖南は藤田組よりもむしろ同盟会側に立ち、
大きな被害を与えたのであるから謝罪し、相当の賠償を支払うのが当然のことであると藤田組を説得した。この
斡旋が効を奏して交渉は大筋で妥結し、細部は現地で交渉することとなった。
大阪滞在四〇余日の交渉団に対し藤田組は金一封を贈ったが、四人とも毛馬内を代表する大地主で旅費・滞在
費は自弁することにしていたので、これをそのまま持ち帰った。後で封を切ってみると五、〇〇〇円で、四人は
いの金を毛馬内の有用のことに役立てようと保管することにした。また藤田組は斡旋の労を担った内藤湖南に粗
品料として二、〇〇〇円を贈ったが湖南はこれを私せず、そのまま毛馬内へ送金した。これに先の五、〇〇〇円
を加え、木柝会なる育英会が組織されたのである。