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した。神父は校長をはじめ伊藤良三町長ら町の有志に図り、大賛成を得た。講師も無報酬で奉仕することを承諾

)、東大法学部卒の大里清三、慶応大学卒の内藤憲蔵、小学校長高橋克三、町長伊藤良三のほか、上智大学出身

の権田文喜を主任教諭とし、同大出身の成田延三を専任講師に迎え、プール神父自身もドイツ語・英語・フラン

ス語を教えた。これは当時の県立中等学校でも到底及ばない錚々たる講師陣で、生徒の燃えるような向学心もあっ

てわずか二カ年で中学校卒業以上の学力を身につけ、多くの人材が輩出された。

児玉道場

木平村の小枝指の児玉高慶の武術道場は、大正昭和にかけての青少年教育に大きな影響を及ぼ

)ている。この道場は児玉が全く私費をもって経営し、青少年に武道を教導して心身の鍛練を

はかった、あまり例を見ない独特な社会教育機関である。雑誌『キング』で「作男も四段の腕前、日本一の武道

の村」と全国に紹介されている。

局慶は幼少の頃には身体が弱く、小学校入学を一年延期して九歳で入学した程であった。父猪太郎は由緒ある

武家の総領にふさわしく心身を鍛えなければと、邸内に道場を建て福永清風、工藤友太郎祐将を師範とし、のち

には戊辰戦争で鬼桂と恐れられた盛岡藩指南役の桂管七郎をも師に迎えた。高慶は一三歳で父の急死にあい、後

は専ら家庭教師について勉学した。当時武者修業と称する剣客が訪れるのでその応対に苦労しながら、諸手突さ

の秘技を工夫・会得した。

六歳で上京し、学業の傍ら芝の町道場に通って剣道を修練し、明治三九年一九歳で講道館嘉納治五郎に入門

二歳で有信館中山博道に入門し、柔道・剣道の道に専念した。柔剣道共に五段精錬証を獲得して帰郷し、全く

私費をもって道場興武館を設立した。興武館は中山博道の来場にあたり済美館と名を改め、県内外から入門する