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共に職業及実際生活に須要なる知識技能を授け、以て国民たるの資質を向上せしむること」を目的とし、尋常小

学校卒業生を普通科に入れ、普通科卒業生と高等小学校卒業生は本科に入学させる仕組であった。

晋通科の修業年限は二カ年、本科は五カ年とし、土地の状況によって一年短縮することができた。しかしその

後の就学状況が意外に悪く、反面戦時下の情勢が緊迫するなかで入営前の青少年訓練強化の必要から、昭和一四

年青年学校の義務制が実施された。その義務制は、初年度の普通科一年から年々一学年ずつ実施し、昭和二〇年

本科五学年におよんで完成することになっていた。学校長以下専任の教員・指導員が配置され、一応充実の方向

へむかったが、独立の校舎もなく小学校の教室を借用し、従来の通り夜学主体が多かった。

教育内容には公民科、普通科、職業科があったが、毎日三~四時間の教練が課され、軍隊強化のための軍事数

育としての性格が次第に露わになっていった

なお昭和二〇年四月一日、秋田県第六農士学校が毛馬内に設置され奉公馬や緬羊の飼育で地域産業に寄与した

が、敗戦と共に解散となった。

また青年学校の義務化によって義務教育は実質的に八年となっていたので、戦後には六三制による九カ年への

延長が比較的順調に行うことができたといわれる。