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囘上し、其の天職と終始して国家の望む所に副はしめんとするに外ならず」と訓令を発している

『秋田県史』資

料大正昭和編

)。

これは財政難から配分金を一般財政に流用することに歯止めをしたものである。

第一回配分金に次いでさらに一万八、〇〇〇円の追加配分があったが、これは特別貧弱町村と認定された町村

に分配された。その総数は三七カ町村で、本郡では曙村・柴平村・七瀧村がこれに認定されている。この認定に

ついては、①資力薄弱町村(直接国税一戸当りの納税額が県内平均に充たない町村)、②県税一戸当りが県平均

に充たない町村、③町村税戸数割が県平均に充たない町村、④戸数が県内町村平均に充たない町村、などが条件

となっていた。

しかし農村の深刻な不況と凶作は欠食児童を増加させ、昭和五年から教員俸給の不払いや減額目的の寄附金の

強要がさらに多くなった。同年九月内務・学務両部長名で市町村長宛「小学校教員の俸給其の他に関する件」の

通牒が出され、寄附・不払い等を強く自粛するよう求めている。

本郡では昭和六年に俸給の不払い・遅延が頂点に達し、宮川村を除く各町村に多かれ少なかれ不払いがあった。

中には不況のためばかりでなく町村財政の紊乱のため、納税が遅れて減収、不払いに至った例もある。二、三カ

月遅延が続くと、大口納税者が納税するという情報を得ると財務係の教員が役場に出向き、分割払いを受けると

いう事もしばしばあったのである。