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校は入学資格を国民学校初等科修了者として、修業年限四ヵ年、採鉱科一学級・冶金科一学級、生徒各四〇名宛
八〇名を入学せしめ、一八年四月の開校となった。この建築費、設備費の一切を地元寄附とし、その初年度分建
梨費一二万五、六四三円、設備費三万四、三五七円が提案された(
秋田魁新報、昭一
七・一二・六付
一八年四月、鹿角工業学校の開校式および第一回入学式は仮校舎の毛馬内青年学校において挙行された。鹿魚
郡初めての男子中等学校の誕生であった。郡民の大きな期待にも拘らず、戦争苛烈となって建築、設備とも遅々
として進まず、ついにその完備は終戦後にもち越された。二〇年一〇月、ようやく新築校舎第一期工事として本
館が完成し、落成式が挙行された。
七、戦時体制と教育
国民学校令
日華事変が次第に激化してきた昭和一三年一二月、教育審議会は「国民学校、師範学校、幼稚
園に関する件」の大綱を答申した。この中で特に注目されるのは、明治の学制発布以来国民に
親しまれてきた小学校を国民学校と改称することであった。加えて既に決定していた義務教育の二カ年延長の実
施を延期し、進歩的新教育運動をきびしく排除していた。
国民学校令第一条は「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ、国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的
トス」と定め、教育の目的を国民の錬成とし、方法的には錬磨育成を行うことにあった。国民学校令は昭和一六
年四月に実施された。