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と、定員は一八〇名、修業期間は九カ月で、出身校長の推薦によって許可された。修了者には臨時検定制度で初

等科訓導の免許が与えられた。

判争が最終段階に突入し大都市が次々と空爆されるようになった昭和一九年一月、防空法が制

学童疎開

疋され児童の疎開命令が出された。空爆は東京等の大都市ばかりでなく地方都市にも及び、秋

田土崎、青森、八戸も爆撃され多くの犠牲者を出した。

郡市からの学童疎開も次第に多くなり、農村部の学校はその受け入れに忙殺された。鹿角では一九年四月に手

馬内仁叟寺と毛馬内クラブに東京都墨田区墨田小学校の一年から四年の児童が疎開してきた。墨田小学校はさら

に先に一部が疎開していた茨城県の龍ケ崎町にも砲爆撃の危険が迫ってきたので、第二陣として二〇年四月に相

欠いで鹿角に再疎開してきた。宿舎は花輪町恩徳寺、長年寺、毛馬内仁叟寺であった。のちに引率職員の秋永佐

久は当時を偲んでつぎのように語っている。

ご住職の岩館昇園さんやお寺の方々の親身も及ばぬお力添え、町を挙げての歓迎と手厚いご配慮などによって、親元を

なれた子どもたちも明るい疎開生活ができましたし、花輪小学校にもすぐ馴れて楽しい学校生活を送ることができました。

二十七年も過ぎて、当時の思い出はうすれてしまいましたが、学校や町の方々からうけたご恩は忘れることはできません。

間もなく終戦を迎えて子どもたちは東京へ帰ることになりましたが、わたくしは家族と一しょに花輪に残ることになれ

した。子供たちを花輪の駅へ見送りに行った日の学校や町の人たちのさかんな歓送の風景と西山の雪がありありと思い出

されます。十一月三日のことでした。

わたくしが東京へ帰らず、花輪残留をきめたのは、花輪の文化的風土と、若い人達の文化活動に魅せられたことと、秋田

県への出向が許されるならば、美しい自然の中での教職を希望したからです。幸い出向の許可も出て、妻も尾去沢小学校