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に勤めることになり、鹿角での生活がはじまりました。その頃の住居は尾去沢の教員住宅でありました。

に勤めることになり、鹿角での生活がはじまりました。その頃の住居は尾去沢の教員住宅でありました。

『花輪小学校百周年記念誌』』

疎開教師の感想より

〓永夫妻は二二年三月末までの二カ年間花輪小学校・花輪中学校に勤務し、やがて東京へ再出向してのちに黒

田区第三小学校長として活躍した。この一文からも、遠来の学童達に示した鹿角の人々の人情の厚さが思いおこ

される。

戦時色の教科書

国民学校は戦時体制強化の教育であったから、教材も皇国民錬成一本にしぼられていた。

昭和一六年から一八年にかけての教科書は戦時色一色となった。

テキノタマガ雨ノヤウニトンデ来ル中ヲ、日本グンハイキホヒヨクススミマシタ。テキノシロニ日ノマルノハ

クヒルガヘリマシタ。「バンザイ、バンザイ」勇マシイコヱガヒビキワタリマシタ。

一年生『ヨイコドモ・上」

日本ヨイ国キヨイ国、世界ニ一ツノ神ノ国、日本ヨイ国強イ国、世界ニカガヤクエライ国。

二年生『ヨイコドモ・下』第十課

世界を一つの

このように、神国日本は八紘一宇

を使命とすることを強調している。

家にするの意

一番大きく改められたのは初等科国史で、皇国思想を培う重要な役割を与えられ、皇国史観によって貫かれ、

ものとなった。理数科は教科の性質上あまり極端な改変はなかったが、それでも時速二五〇キロ・航続時間八時

間の艦上攻撃機がホノルルへ行きまた空母に帰るためには、艦はホノルルから何海里以内にいなくてはならない

かとか、数をかぞえる絵は軍艦や戦車で埋まっていた。ただしそれから間もなく終戦を迎え、この教科書の使用