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会、講演会もさかんに行われ、大正一〇年から花輪劇場と改称した。昭和五年花輪劇場は旭町に移転新築の上、

近代化された。映画流行期に入り、当時すでに花輪映画芸術研究同盟、花輪映画鑑賞会の結成をみている。なお

花輪には、二九年中堰向に中央劇場、三七年下堰向に第一劇場が開場して賑わったが、その後テレビの普及に押

され、四〇年代後半から五〇年代にかけ相次いで閉館した。

毛馬内では、大正元年毛馬内座が萱町南端に建ち、昭和三年昭和館が五軒町に開設した。昭和二五年に毛馬内

座は陣場寄りに移転改築し、毛馬内劇場と改称した。また大湯では、昭和二年一二月不老倉鉱山の寄付による劇

場文化閣が川原の湯に落成し、娯楽の殿堂となった。文化閣は戦後焼失し、のちに大湯中央劇場が上の湯に建っ

た。ほかに尾去沢鉱山協和会館では、従業員慰安の演劇や映画を一般にも公開し、人気を集めていた。

二、文芸活動

〓俳句

鹿角俳句大会

河東碧梧桐は、明治四〇年六月「三千里」の旅のなかで、大湯に浅井小魚を訪ねている

大正元年一〇月には、碧梧桐門の荻原井泉水が小魚を訪れた。十和田湖へ同行した二人の会

話が井泉水の季題無用論に発展することは、村山古郷『大正俳壇史』にみるところである。この時井泉水は「逢

へば山人の君知れり松明負ふ人も」の句を作り、小魚にその無季を指摘され愕然とする。井泉水の季題無用論の

端緒であった。