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小魚自身、昭和七年の凍雲会組織まで俳句で目立つ動きはなく、同三年大湯村が長野県から講師を招いて木彫

人形の講習を行ったことから、大湯木彫人形で全国共進会一等賞を得るなどその制作に専念し、かつ郷土研究に

力を注ぎ大湯環状列石の発見と調査に成果をあげている。

昭和七年、凍雲会の句に、

独りもの雀の頭と見えて雪の朝なる孤林

乳房にすがって雲雀きいてるのあや子

雪晴れて星一つ空にすきとふる霊〓

廃屋となっている百合の花咲いて六〓

雲の峰橋畔人の訃を語る沐雨

孤林は諏訪貞治、霊泉は諏訪富多、沐雨は米田泰次郎、あや子は米田文、六山は高木新助、ほかに白涯千葉梅

弥、伍平曲田儀助、蕉児諏訪省治、伊藤良順、柿崎直一郎、寿泉豊口亀次郎、奇渓らがいた。奇渓は大正から昭

和初期のさきがけ俳壇

安藤和

風選

)でも活躍している。

小魚晩年の句は昭和の初め秋田魁新報社が企画した秋田百人一首一句に入った「方丈炉ばなしの手をひろげ鶏

追うた」に代表されるように、小魚調ともいうべき自由無碍の境地に達していた。昭和二二年九月七二歳で没し、

大湯大円寺に「秋立つや大樹の梢おのづから」の句碑がある。

樹人。森女

大正元年俳壇に復帰した虚子は碧梧桐の新傾向派に対する守旧派として、写生による定型、季

〓の尊重を唱え、ホトトギスは有力な俳人を擁して勢力を増しつつあった。

花輪地区にホトトギス系の俳句を積極的に広めたのは小田島樹人だった。樹人の名は大正四年頃からホトトギ

スに見えている。同五年の「鹿友会誌」第一八冊には飄々の句と共に紹介されている。