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一閑関久兵衛
明治四〇年
八二歳没
)の句碑が、大正一五年九月、門人如竹関善次郎によって長年寺境内に建てられた。
「空低し何處まで続く花の奥一閑」。その追善句に「碑の前に光をそへて秋の水魯伯」、ほか村山楽水、内
高
田晶山、大里平治、一芦、一杉、甲子朗、杏里、露星
)、初女、艸于、森女らが収められている。
杉
大正末年から昭和にかけて、「さきがけ俳壇」で活躍したのは奇渓らであった。選者は安藤和風で蕉風の正統
継承をめざし、のち安藤鹵舟にかわった。
楼篇
魚池に潜みて雨の糸柳奇渓朝々の味噌汁うすし冬籠り底八
郷党相争ふや花笑ふ同青き紗に衣更へる蝶や朝の陽に〓
○。
ほかに鹿角石塚津和、宮川阿部貞橘、工藤蝶夢、尾去沢悦人、ハナワ雪女、房子、オウユ午平、朗々、虚鳴、
山猿、花輪芳山らがおり、楼篇は木村湖山である。
昭和二年一一月尾去沢鉱山文芸部俳句会が鉱山倶楽部において、出席二二名で催された一
鹿角時報、昭二、
・一二・二〇付ゝ
お針子の火鉢に遠くいそしめり郊春なかなかに下ろさぬ碁石や火鉢抱く未
南天や実の赤々と今朝の霜渡洋小春日や空地を借りて畳替光〓
下足場の炭いこり立つ火鉢かな秀七褒められし馬の毛塾や小六月華
ほかに狸月、福寿草、楠亭、多文、天耳、函淵、愛庭、翠らである。秀七伊藤喬助が同年五月鉱山長に着任し
て、尾去沢の俳句熱は盛り上った。胡六に指導を仰ぎ、花輪の俳人も加えて「尾花吟社」と称したと思われる。
奈良
「花輪俳壇漫筆」(
)は昭和六年から九年までの花輪における俳句会記録である。六年初夏、虚子門の前田
野人
普羅の来遊を機に胡六庵に歓迎句会を開いた。