テキストを表示
食甚の天文台や杜鵑五峰
おろかしきまで凝視むる北国の初日一芦〓
一芦坊
山白く松は緑よ初日影如竹雷鳥や故郷の大炉なつかしき正改
喧嘩の子一人となりて葉鶏頭冬園高原を大きく動く雲の影野-
野人
号(
山白く松は緑よ初日影如〓
雷鳥や故郷の大炉なつかしき正
喧嘩の子一人となりて葉鶏頭円
五峰は川村十二郎、一芦坊は石ケ森一芦、正路は奈良正路で俳誌「主流」同人、耕雨と号した。冬園は渡辺一
昭和
治郎で第二九冊(
〓)から句を寄せており、野人は「花輪俳壇漫筆」著者の奈良一蔵である。
元年
一方、大正一二年創刊の花輪小学校『同窓会誌』にもまた、多くの文芸記事をみることができる。その第一六
昭和
)に「小田島青蛾応召送別句会」、つづいて第一七号
昭和一
四年
)に「戦塵抄」がある。
三年
トーチカに迫りて麦はみなひでり青蛾
眼鏡暗く星座かそけく敵の空に青蛾
青蛾は、艸于小田島徳蔵の長男。句集『静かなる陣地』
昭和一
五年刊
)に「花あかしや散れよ白衣にわが額に」
「戦死報花あかしやに来る雷雨」などを収めている。
この時代の花輪俳壇の消長を回顧して阿部胡六は、のちの昭和四七年刊花輪俳談会同人句集『ほそぬの』の
「序にかえて-花輪俳句百年」のなかでつぎのように述べている。
(小田島家が)大正八年頃帰ってくるまでの十五年間、花輪の俳句会は何らの進歩もなかったらしい。俳句を再興したの
は私の兄樹人並びに艸于が花輪に住みついてからである。樹人は俳魔と言われた人で、樹人の手にかかるとどんな人であ
俳句が好きになるという人であった。艸于、樹人についで、姉の渡部森女と、斯くいう阿部胡六と、その当時まだ生きて
いた母の小田島初女が中心になって、これからの花輪俳句会の最盛期を迎えるのである。
次いでそのなかに昭和一〇年秩父宮殿下奉迎と、翌一一年の森女句碑建立記念句会の詠草をあわせ、四二名の
句を収録している。