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またねばならなかった。

秋田県短歌連盟は昭和一六年に設立され、一七年に『年刊歌集』を刊行した。編集を中島耕一と石田玲水の両

名が担当、一〇三名のうち鹿角関係は当時秋田在住の中島を加え、花輪の佐藤秀雄、他は尾去沢で計六名。

幾日か忘れかねたる悔ありて樹木の影を走り横切る岩沢仲

打ちおろす斧の刃先は冬の日に鈍く光りて木の根にくひ入る岡信土

鞍山はふるさとの如き山ありて夕靄たてば愛しかりけり佐藤秀雄

かってわが学びし事と関りなき仕事に生きて一生悔ひざらむ中島耕

兎菊咲き満てる谷地を子を背負ひ妻をともなひて山の温泉へ行く高橋儀六

鉱業報国のポスターを掲げて坑深くあらがねを掘る音地にひびく土田投石

中島耕一の歌集『雪橇』は昭和二三年の刊行。勝平得之の版画と共著で、中島の筆蹟を版に刻したものであっ

た。

昭和四年、中島は二七歳のとき秋田市へ出、秋田新聞社、秋田旭新聞社を経て、同一〇年に秋田魁新報社に入

社したが、この間、同志と共に「草園社」を創立している。二一年に魁新報社の出版部長、同紙は「魁歌壇」を

由利貞三選ののち社内選という形をとり、中島が選を担当した。二四年二月没、四七歳。四九年に花輪長福寺に

歌碑が建った。赤城文治

赤坂

文弥

の歌と共に二首並べて刻してある。二人はいわば竹馬の友、同町内に生れ育ち、

歌によって同じ道を歩んだが、中島は夕暮の「詩歌」から「国民文学」を経て晩年は植松寿樹の「沃野」に拠っ

た。赤城は「アララギ」一筋に通した。