テキストを表示

雄飛する人々

明治における鹿角の芸術的環境は第三巻上に述べた通りで、日本画壇の巨匠寺崎広業は一時

期花輪に住み、平福百穂もまた父穂庵が川口月嶺に絵手本を学んだことを折にふれ述懐して

いる。

その寺崎広業の天籟画塾の門には奈良裕功が学び、平福百穂は柴田春光の昭和二年秋田市での領布会に推賞の

辞を寄せ、その若き才能を認めた。その前後百穂は「我が秋田県の一隅鹿角郡から近頃有為の青年美術家が、く

つわを並べて中央美術壇に競ひ起ったとはまことに痛快なことである」と述べている(〓

鹿角時報、昭二ノ

・一二・二〇付

〓。

大正から昭和にかけ、明治生まれの鹿角の美術家たちは、多士済済、帝展や院展など中央展をめざし相競って

いた。年長の順でいえば、彫刻の相川善一郎

一六年生

花輪

〓)、日本画の奈良裕功

二七年牛

花輪

)、柴田春光

三四年生

毛馬内

)、福

二七年生

田豊四郎一

〓)、洋画の小林喜代吉(

三〇年生

小坂

〓)、伊勢正義

四〇年生

小坂

)、奈良清四郎

四三年生

尾去沢

)、また版画では

小坂

小泉隆二(

四〇年生

小坂

)らである。

これら同時代の人々に更に秋田の高橋萬年、五城目の館岡栗山、大曲の柴田安子、能代の杉本まつの、大館の

伊藤弥太などを加え、柴田春光が事務の面倒をみつつ秋田美術会をつくり、同郷人として親交を深めていた。

彫刻の相川善一郎は、小学校卒業後父善次郎の大工仕事の手伝いをしていたが、一八歳の頃、新進の彫刻家と

して知られる朝倉文夫に血書の入門歎願書を送り、明治四五年上京して朝倉門下生となる。朝倉彫塑塾生第一号