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春光は、快活な反面淋しがり屋であった。家へ人を集めるのが好きで、よく忘年会を春光宅で催したと、福田
豊四郎は回想している。精神の情熱的な反面生来の病身は、昭和一〇年四月、惜しまれながら世を去った。三五
歳であった。夫人は同じく日本画家で伊東深水門の広田田鶴、深水の媒酌で結婚の際、相川善一郎が親代りをつ
とめている。
奈良清四郎は、尾去沢に生まれた。昭和二年、一七歳のとき上京、神田中央学校土木科夜間部に入ったが、翌
年中退して、日本美術学校西洋画科に入学する。四年、同校を退学。この年光風会展、中央美術展に入選する
芥川賞作家寒川光太郎との交際は、この頃から始まった。
昭和五年、片多徳郎、堀田清治に師事。この年の秋頃、旧制大館中学校を卒業後体調を崩して静養中だった、
同じ尾去沢で二歳年下の内田慎蔵と共に、彼の伯父の持家で画作に専念する。この時の二人の作品は翌年独立美
術協会第一回展に出品したが、内田は入選し、奈良は落選している。その後は看板描き、施盤工などをしながら
絵を描くが、当時の社会主義思想の洗礼を受け、警察署に検束されたこともある。
内田慎蔵は、大正元年尾去沢に生まれた。小学生時代を満州で過ごし、大館中学を卒業後、当時の尖鋭的な団
体である「一九三〇年協会」を継承した「独立美術展」に出品、この時期前記奈良清四郎と行動を共にしている。
その後、帝国美術学校を中退して独立美術協会の研究所に入り、林武、川口軌外、殊に福沢一郎の影響を受ける。
そのあと「新造形美術協会」の旗上げに参加するが脱会して麻生三郎らと「エコール・ド・東京」を組織して詩
と絵の機関誌を発行する。戦争中を満州で過ごした。
高杉洋介は、大正二年尾去沢に生まれる。肖像画学校を卒えたのち、太平洋画学校に学ぶ。伊藤春興に師事し