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て水墨画を修得。三軌会に所属し最高賞をうけたほか、日経賞その他を受賞した。
なお、このように上京して専門の芸術家をめざした人々のほかに、郷里にとどまりながらその才能と情熱を彩
管に振いつづけた人たちもいた。
関兼次郎は、花輪六日町において呉服店を営み、盛岡見世と稱される一方で、玉麗と号して師に就かぬながら
達者な絵を画いていた。百画会を、恩徳寺を会場に催したことがある。大正一〇年末頃に盛岡へ引揚げたが、百
助旅館にあった「富士巻狩の図」など鮮麗眼を奪うものであったという。
諏訪富多は大湯でホテルを経営する傍ら、大清水の開拓事業や大湯郷土研究会を組織して環状列石の顕彰に当
たるなど、幅広い文化人として知られたが、霊泉と号して、詩や和歌と共に日本画をも深くたしなんだ。若年の
頃の墨を主に用いた山水から、晩年の代赫と群青を主体にして画いた山水は高雅な澄明の気に充ちている。
書
すでに内藤湖南は中央において嘖噴の名声を得ていたが、この地方における傑出した存在に種市雲
山と高瀬香汀がいる。
種市霊山は明治一五年生まれ、本名直三。別号に靄々山人、林泉老人とも称した。大湯小学校、毛馬内小学校
に奉職、のち旧制大館中学校で漢文と書の教師をつとめる。書は初め長三洲を学び、ついで吉田晩稼の書風にひ
かれ、やがて内藤湖南に傾倒した。鹿友会誌
第一四冊、
明治四五年
に「種市直三君、如何にしても腕の人也。一度、右腕
を振わんか、其達筆、群に秀で、飜って左腕を振わんか、酒量群を抜く」とあり、また『秋田書画人伝』
井上隆
明著
は「三洲の筆意を基調とし、六朝北派を加味したスケールの大きい、筆力も十分な作に特色がある」と評してい
る。昭和二〇年没。