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さらに一二年には小田島樹人選・海野厚訳詩『青年愛誦曲』

白眉出

版社刊

)によるイギリス、ロシヤ、スウェーデ

ン民謡の紹介もなされている。

京文

昭和三年樹人の『昭和新曲選第五編小田島樹人作曲』

)が上梓され、四年『昭和小学唱歌集第四集小

白眉出

田島樹人曲』(

が発刊された。この頃から白眉社の「唱歌教材」同人となり、『唱歌教材集』を編んで

版社

いる。七年に『新訂尋常小学唱歌第一学年用』に「僕の弟」が発表され、樹人の作詞・作曲によるこの曲はのち

に「講談社の絵本」にも載った。樹人に対する評価は高く「あのリズム感はかつてない華麗なものであり、その

なかに日本的哀愁が流れている。西欧の音感がみなぎり、西欧派のリズムを導入して日本の子どものリズムに変

井上隆明『秋田の

えたのは樹人の功績である」(

)といわれている。

うたと音楽家』

川村薫

高杉露

いまも市民に親しまれている「鹿角小唄」

)と「花輪小唄」

は、ともに昭和六年樹人の作曲、

作詞

星作詞

柳沢永

ほかに小坂元山小学校々歌、花輪高女応援歌、毛馬内青年会歌

)などがある。市の時報チャイムは正午

治作詞

に「おもちゃのマーチ」、午後六時に「山は夕焼け」の曲を奏でている。樹人は一一年から花輪高女、一五年か

ら秋田中学、戦後秋田高校に音楽の教鞭をとり、三四年に七四歳で死去した。葬儀は秋田市において音楽葬をもっ

て行われている。

黒沢隆朝は、明治二八年生まれ、父は市太郎、代々神職の家であった。秋田師範卒業ののち上京、大正一〇年

東京音楽学校を卒業した。バイオリンを学び、山田耕窄、田辺尚雄に師事した。在学中から先輩成田為三の『辛

楽講義録』『楽典』の下書を手伝い、早くから執筆家として知られた。

大正の終りごろから童謡作曲をさかんに手がけ、一三年から昭和二年にかけて自作曲集『可愛い童謡』一〇集