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円通寺の創建と
庵寺の統廃合
鉱山地帯である尾去沢には、江戸時代からの三つの庵寺大慈庵・薬師庵・独楽庵と、明治
になって創建された合同仏堂の元光庵があった。以下、円通寺二世岩館道三編『大盛山円
週寺誌』第一編によって記すと、大正五年一二月に笹小屋の大慈庵が、大火により全焼し
た。それから同七年に獅子沢の薬師庵が、獅子沢ダム築造のため、大慈庵焼跡に遷座して二庵合同の仏堂として
再建された。さらに同一四年四月一九日に元光庵が元山部落の大火で全焼し、全部が笹小屋の合同仏堂の信徒と
なった。そして間もなく庵住と世話人の協議により合同仏堂を大盛寺と改称した。
昭和九年七月三〇日の信徒惣代会議により大盛寺の堂宇移転新築が議決されたが、移転先の尾去沢村尾去字中
沢四番の五の土地問題で着工が大幅に遅れた。一一年六月に地鎮式が執行され、一〇月二五日に落慶入仏〓
讃法会が行われた。この大盛寺の建立に当たって、信徒などや尾去沢鉱山関係の寄付によるところが大きかった
が、尾去沢町(この年の一〇月より町制施行)から多額の寄付と全面的協力を得ている。
新寺が完成して約一カ月後の一一月二〇日に尾去沢鉱山中沢ダムの決壊による大惨事で死者三六二名、さら〓
一二月二二日の二次災害で死者一二名が出る大変災が発生した。翌年、これらの死者を慰霊するため、大盛寺の
鋳
木
境内に観音堂と地蔵堂の建立が行われた。なお、これらの堂に安置する観音像
〓)と地蔵像(
)は、相川善
像
造
一郎の制作によるものである。
また、このダム災害の影響で赤沢部落の住民の移転が行われ、それに伴い住民の手により維持管理されてきた
独楽庵は、廃絶されることになった。鉱山の盛衰により寺院もまた、その影響を受けること大であった。
昭和一五年四月一日の宗教団体法の施行により、これまで無登記・無籍であった大盛寺は、すみやかに寺院と