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余剰の水は草木、二本柳ヘサイホンによって送水し開墾する計画が生まれていた。工事は河水統制事業として県

直営、工費四七〇万円は全額小坂鉱山負担、発電所は鉱山用とし開墾は一八〇町歩可能というものであった。

八年から多数の労務者が入り、飯場も続々と建ったが、戦况の悪化と資材難からあまり進捗しないうちに終戦と

なった。

一九年に入ると、銃後にある国民の必死の努力にもかかわらず、食糧事情悪化の一路をたどり、軍需物資の増

産運動も労働力の不足から掛声だけに終ることが多かった。

沖縄県がアメリカ軍に占領された後、軍部は本土決戦を叫び、可能な限りの兵力と戦略物資を関東平野に集結

した。アメリカは日本本土のじゅうたん爆撃を強化し、昼・夜間を問わず、中小都市をも含めた無差別な焼夷弾

攻撃を繰り返した。物資の船舶輸送はまったく途絶え、国内の鉄道や車輌まで敵艦載機の銃撃をうける事態となっ

た。東北地方とて例外ではなく、二〇年七月一四日、青函連絡船翔鳳丸など九隻が艦載機の攻撃により沈没、津

軽海峡青函航路が壊滅した。同じ日船川沖で商船が攻撃され、五城目町で奥羽線貨物列車が襲撃をうけるなど、

以後県内各地で銃爆撃の危険にさらされることが多くなった。

同年八月六日広島に原子爆弾投下、翌々八日ソ連が対日宣戦布告し北満・朝鮮・樺太に進攻開始、翌九日長崎

に原爆投下、ついに政府は一四日ポツダム宣言受諾を連合国へ申入れ、一五日戦争終結の詔書を放送した。国民

足かせと

は敗戦の報に茫然としたが、長年困苦を強いられた戦争の桎浩一

)と生命の危険から脱した、一種の解放

手かせ

感と安堵感を覚えたのであった。

太平洋戦争の戦没者は、二二年の政府発表では陸海軍人一五五万五、三〇八人、一般国民二九万九、四八五人、