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二月二九日ついに熔鉱炉の火を消した。組合は四一年一月八日以降全山全面二四時間スト、ブロックごと波状無

期限ストなど反覆実施の闘争を組んで抵抗した。のち二月一三日交渉で会社は、炉に火を入れて協議を行うとの

惡度を明らかにしたので、スト中止の上細部交渉を行い、結局閉炉の時期は三月二〇日を目安とし、小名浜精鉱

送りは閉炉の時点からにするとの了解点に達した。かくていったん火入れされたのも束の間、四一年三月一九日

をもって閉炉式が挙行され、製錬部門は正式に閉鎖された

四二年七月に田郡竪坑が廃止され、その翌八月選鉱処理鉱量が戦後最大の月産七万四、四〇三トンを達成した

が、もはや全体的な残存量の枯渇と品位低下は明らかなことであった。四三年には、再生を期する操業規模とし

て月産出鉱量

請負組

を含め

一粗鉱四万二、〇〇〇トン、銅品位一・〇三パーセント、含銅量四三三トンを見込み、冬

種の合理化を行った。分析課を分析係とし、庶務・労働の二課を総務課に改めるなどである。すでに四二年四月

湯瀬寮翠山荘の経営を大手不動産に移管していたが、四三年四月協和会館の映写業務と鉱山文庫を廃止し、九月

尾去沢倶楽部の経営をも大手不動産に移し一般旅館として営業を始めた。この年、配置転換などで、約八〇〇名

が鉱山を去った。

その後懸命の探鉱作業が続けられたが、鉱况の挽回につながるような新鉱脈の発見にはついに至らなかった。

一時田ノ沢(

)の大直利や浦志内探鉱の有望性が伝えられたものの、あまり進展がなく起死回生の願いは空し

かった。かねて予期されていた鉱山の別会社移行が現実のものとなり、四六年九月労使協議会において会社側か

ら示された企業整理案は、現在七二五名の従業員を四七八名に減らした上で明年四月一日から新会社を発足させ

るというものであった。かってトン当り約六〇万円だった銅価格は現に三六万五、〇〇〇円平均、四月から九月