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乗客・貨物共に赤字経営の続いていた日本国有鉄道が、六二年四月一日に分割され民営となる。これにより花
輪線は、東日本鉄道株式会社に組み込まれることになった。
戦前の一八年に鹿角・北秋田・山本の三郡のバス業者が合併して秋北乗合自動車株
バス路線の拡張と整備
囚会社が設立されたが、物資の不足から当時のバスは薪又は木炭を燃料としていた。
二三年まではあらゆる物資の不足、打ち続くインフレにより最悪の営業状態であった。二三年一一月に錦木村室
田にあった秋北バス鹿角営業所が、火災にあい全焼してしまった。代替燃料の薪・木炭車は、二五年には姿を消
して、その後配給車両や資材の供給もよくなってきた。
二七年から業績も好転し、秋北バス編『四十年のあゆみ』
昭和五八年
三月発行
)に二七年二月一日から二八年一月三
日までの業務報告として「本期間は経済界の安定せる時勢を反映し観光客の往来も終戦後最高を示し、且つ又
般バス利用者も漸増を辿りし結果、当会社の運輸成績も順調に推移しました」とある。この頃から観光地への定
期バス・貸切りバスの営業が、行われるようになった。国立公園十和田湖を始め八幡平・男鹿などへ「快速豪快
なロマンスカーのご利用を」と宣伝している。
玉川温泉までの道路が開通して、二七年から定期バスが、運行を開始した。この年から現在まで運行されてい
る路線バスは、第一七表にあるように路線を拡張してきた。この頃の様子を「走らせさえすれば満員で、ボンネッ
トまで"乗せた"ではなく"乗せられてしまった""運ぶ"時代、車掌がドアの手すりにしがみついて振り落と
『四十年の
されまいとしている光景が日常茶飯事のようにみられた」
)時代であった。しかし、第一八表に現れ
あゆみ』
ているように秋北バスでは、四九年以降乗客が減少してきている。