テキストを表示

三年、六〇歳にならずに没した。

木村富子は二七年花輪を去ったが、歌集『北投石』を三四年、歌集『セイロンの休日』を四五年、『歌と随筆

針尾燕』を四九年に刊行している。

赤城文治

赤坂

文弥

は赤城鹿人とも言った。「草の実」時代から作歌し、花輪短歌会草創の昭和三年にアララギ

入会。小坂高女を経て昭和一五年から弘前に住み、戦後の二一年弘前アララギ会を結成し指導した。晩年は弘前

高等学校教諭、三一年、五七歳死去。二九年に歌集『秋燕』刊行、序を結城哀草果が記している。

文治

屑籠の屑焼きしかば桜桃の核もするどき焔ふきたり文〓

相よりて袋貼りゐる吾妻たち老いたる夫をおのおの嘆く円

「青森アララギ」は第七八集を「赤城文治追悼号」とした。三二年三月発行。文章を土屋文明、結城哀草果、大

黒富治、扇畑忠雄、赤坂文規外と追悼歌。四九年、花輪短歌会によって長福寺境内に朋友中島耕一とともに歌碑

が建てられた。

戦後花輪短歌会が再出発した二〇年代後半には、尾去沢短歌会も例会を重ねていた。両短歌会は時に交流し合っ

たが、やがて尾去沢短歌会は、鉱山の衰退に伴い会員の四散をみた。二六、七年頃とみられる合同歌会の記録が

残っている。所は尾去沢鉱山クラブ。

中空に月は澄みつつ橇の跡光りて続く道かへり来ぬ山口初代

戦ふ為に唯それだけに飼はれゐる軍鶏の命を佗しむ日あり板橋昭里

買ひ出しに通りたりしはこの道か年ふりし今日歩みつつ思ふ斎藤梨影