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荒々しき少年の揶揄がかなしきに泥ふかく花を踏みにじりゆく一

板橋昭男は尾去沢鉱山採鉱課に勤務したが、四三年合理化にともない、新潟へ転居し彼の地で没した。尾去沿

マインランド地内に「かたき音にふるへてひゞくさく岩機は石英層をつらぬくらしも板橋昭男」の、鉱山の勇

者を讃える碑が建っている。

二一年七月、「田原愁城追悼遺歌集」が大館床頭短歌会から刊行された。愁城田原昭二は俳句の項で述べた。

息弱くなりたる日々よ二階より見ゆる遠くに辛夷咲き初む田原愁〓

氷嚢を取り替へられて目覚むれば雪静かなる朝となりゐつ円

二五年、『秋田県短歌史』が刊行された。編集発行は秋田市石田玲水である。その歌人編で「赤坂文弥と中鳥

耕一」を佐藤正二が執筆している。

再出発した花輪短歌会には、戦後弘前アララギ会で活躍していた赤城文治が常に歌を寄せ、注意ぶかく見守っ

ていた。桜田義雄はすでに作歌はしなかったが、短歌会の世話役として無くてはならぬ存在であった。その頃の

「アララギ」における赤城文治の活躍は、花輪短歌会にとってもつよい刺戟となっていた。

「アララギ」の佐藤正二は戦前からの会員であり、奈良東一郎の入会は二六年のことであった。当時の「アララ

ギ」の土屋文明選は、厳選で有名であった。

〓揚を盗める猫の怯ぢ易きその表情を吾は見下ろす奈良東一即

奈良東一郎

県歌壇の先輩、秋田市の大黒富治はアララギ同人だが、奈良のことを「油揚歌人」と呼んでいた。

三五年になって「アララギ」から文明選は姿を消し、代って複数選者制となった。この頃から奈良の歌は目立っ