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伝統の謡曲

鹿角の謡曲は、初め南部盛岡藩のお家流である宝生流がさかんであった。明治初期に花輪の大

里寿、田村観西、関久兵衛らが藩のお抱え能役者山瀬悦人を招き、宝生会をつくった。明治の

〓スれ

終りに祖父寿の命により大里平治が上京し、宝生九郎に師事して研鑽を積み、帰郷ののち花輪に鹿謡会をつくり

宗家の流儀をもってきびしく指導した。

芸術院

入里令三は、昭和一〇年父平治の嘱を承けて上京し、宝生流能楽師野口兼資

)に内弟子として入門。同

会員

一九年社団法人宝生会会員・同能楽協会会員となり、疎開のため帰郷したのちは花輪宝生会を主宰し、後進のた

め謡および仕舞の指導に当たった。会員から高谷愛次郎、阿部六郎、折戸昌一、菅原俊夫が宗家から宝生流謡曲

指導嘱託免状をうけている。

観世流謡曲は、大正の頃から袋丁の医師木村義平が、花輪観楓会の名でその普及に当たっていた。その薫陶を

受けた者も多く、恩徳寺には昭和二七年の故木村義平先生追善謡会番組の掲額が納められている。木村義平の没

後六日町の杉江清助が杉葉会をつくって指導を行ったが健康を害し、毛馬内の柳田九郎、大館の岸諄一の出稽古

をうける期間が続いた。やがて木村正三、奈良竹治らを中心に円徳寺を例会場とする花輪円徳会を結成し、観世

流の継承につとめることとなった。四九年鹿角市芸術文化協会加入以前から五五年度までの会長は小松隆年、次

いで平成元年まで奈良竹治、のち小田島欣治に替った。

花輪宝生会、花輪円徳会とも恒例の文化祭には、花輪公民館において「謡曲の会」の合同公演を行い、また

錦木塚祭り」にはともに塚前に謡曲「錦木」を奉納している。錦木塚能楽堂建設は共通の大願である