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氏に習ひ大坪流の馬術を戸来氏より得萩野流の砲術を桜井翁より受倍

に風流の道を好み川口月嶺翁に従ひ工に四条風を画き滝鱗趾翁に附て

善く誹諧を歌ふ何事を学ひても妙に其術理を覚り易くして皆衆人に超

たり又墾田の理に通す過る乙丑の歳企て毛馬内千徳両御釆地の内にし

て三百余石の開墾すべき地を索出し国の公に乞へ其基を創て主公に奉

りたるに主公若干の禄を賜て褒賞ありき又家令を勤たり助右エ門性正

直にして勇気あり平生癸丑以来の世態を慷慨し素より勤王の議を主張

し今年夏の頃時勢論を書述るまてしたれど国命否むへからされハ主公

の御供して軍に出て今茲慶応戍辰九月二日討死しぬるは実に大丈夫の

本意なれど妻石田氏は今年生みし子を捨て里へ帰りぬれハ其子ハ乳も

らへに去る方へ遣り跡に残るは七十三歳の父と二男子なり誰かは飯を

炊て喰ハしへき誰かは衣を縫て着すへき誰かは庁を掃ふへき予先の日

見舞としてまかりしに幼き子のぐわんせなき又兄弟のいさかいに祖父

の呵りハきかぬ孫老たる足の蹶き易く見るに付ても哀にして不思袂を

霑しけり助右エ門今年四十一歳予より長すること四歳なり予と竹馬の

友にして殊に平生の交り深く心の丈を尽し合しか今より又逢ことのな

らされハ彼の時勢論を予に評せよとて曩におこせしを返さてあるか殊

更自筆なれハこれを霊魂に乞て形見とそなせん

玉井文佐久実名ハ祐之役人役人といふは邦俗司ある者を総テいふの名なりしを我

御家にハ国の公の事に預ることを勤る者を斯いふ習ハセリを勤め用人を兼たり父三

右工門早亡し母ハ玉井氏健にしてあり中津山氏を娶り二男一女を

生めり長ハ和喜弥廿歳次ハ万次郎十四歳女は某に嫁し文佐久性剛

強少き時より山口流の釵術を浅沼翁より習ひ泉沢修斎翁の門に入

て長沼流の兵法を学び後沢出賢良翁に従ひ同流を学へり又桜井起

雲翁の門に遊ひて萩野流の砲術を講し頗る其技に達し桜井翁の門

弟子此郷にも数多ありしを文佐久に附して教へしむるに至れり過る

歳中将の公国を巡り此郷に至り文武の業を試玉へし時文佐久も出て其

技を呈したりしに公物を賜て褒賞したりき今茲慶応戍辰九月二日四十

六歳にして討死したるハ真に武夫なる哉然ハあれと我御家の砲術に秀

たる者は不幸にして皆故りたれハ此数多の子弟を誰か教ゆへき憾めし

きことならすや

立山熊太郎実名は昌俊象水と号し廉之助の嫡子にして母は内藤氏なり

内藤氏を娶り一女を生めり泉沢修斎翁の門に入書を読詩を作り長沼流

の兵法を講しまた沢出賢良翁に附て兵法を学へり家染職を業として生

計を助るにそ事繁き中にも余暇あれハ又予の処に来リ遊て或ハ志を語

り或は詩を講し性篤実にして能学ひ事を勤めしかハ何事も倚輩に超し

中に詩ハ頗る其三昧を得能景情を写たり性質多病なれハ常に是を歎き

僕不幸にして病多けれハ若し事有りても功に立難し只一死を以聊君恩

の万一に報するの誠を表したらハ生て床褥の中に辱めらるるに勝るへ

しと語り合しか今茲慶応戍辰九月二日二十七歳にして討死したるは平

生の言を踏み丈夫の操を失わずといふへし然りといへと人聖と賢とに

非るなりハ皆能する所あり能セさる所あれハ天此人に年を假してその

能する所を成しめハ其功少なからさるべきに今三十歳に足らぬ命を奮

しは如何そや鳴呼憾むへしといふも余ある也歎きの中の喜ひといふ諺

あり今度の軍に依りてハ中将の公を始め執政諸隊長の人々より数千人

の兵士及農商の徒に至るまて日夜心志を痛ましめ幾許の金穀を費し又

討死して身首処を異にし骸骨を原野にさらしも多くして其親戚の悲み

言計りもなき其中に俗吏姦官の徒はそのなし事する事皆人情に戻り床

の上に安座しながら彼を殺き是を〓て私心を営み上より下へ下し賜り

し物を〓薮して我懐に入れしもままあるよし斯上下肝脳地に塗る苦を