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秋田領江御討入ニ付百姓共江御召し之御印紙板木に摺りて文言

左之通

今般軍を挙て其境に討入たる事は同宗之親隣国之好を不顧にはあ

らす右京太夫殿之御為に不忠之族を誅し過激之徒を除き百姓町人

をして旧之如く安堵せしめんカ為なるを心得違之者有之道路ニ泣

叫び山林ニ迯隠れんも可憫之至なれハ今豫め軍を挙る之故を告知

らせ置もの也抑当夏会津降服謝罪之上に庄内罪名未タ分明ならず

又農桑之務カ急なる時に当るを以て奥羽諸侯之重臣共仙臺白石〓

おゐて解兵之義を会議せし折柄右京太夫殿よりも戸村重太夫を被

遣盟約書ニ連署致させられたる上は縦ひ総督府より再度庄内征

伐之御催促厳敷共遂ニ盟を変せられるへき筋ハあるべからす況や

九條殿下我国に御滞在中兵力を不用鎮撫之趣意を被為立度との

御直話を親しく聴受し置たれハ御催促之厳しカるべき筈もなし既

二して殿下其地江御動座之節岡本又太郎平元正を以て申立られた

る演説ニも動干戈不可然旨を細々と陳せられたれハ此度之征伐は

固より右京太夫殿之心より出たるにも有間敷又殿下之思召より出

たるニも非るへし思ふに不忠之族打集りて過激之徒に阿附し〓

命に託して仕出したる無名之軍なる事疑ひなし且自古両敵相当る

時たにも使者不殺を以て礼義とせり今盟を変ずるの断りもなく卒

然仙臺家之使者を掩殺し事の前後をも不弁軽卒に至るまて街ニ皇

首し我国より総督府ニ随従せしめ遣ハし置たる軽卒迄も誤殺し

透ニ百姓町人をして塗炭之苦ミニ陥らしめ数百年連綿たる名家を

して滅亡近きに在らしむるニ至る同宗之親隣国之好しミ右京太去

殿之心を察するにいかでカ座なカら視るに忍びんや是今般之軍を

挙る所なれハ不忠之族過激之徒ハ所赦に非れとも百姓町人に至る

迄饑たる者には食を與へ凍えたる者ニは衣を与へ家宅を焼かれた

る者ニは居所を与へ一国平定之後迄ハ扶持し可置之間決而騒擾不

可有之者也

八月盛岡軍事方

右之御印紙村々降服之輩へ御召し被成候

一、薩賊追々暴行王命ニ託し私意主張ニ付今般紀州尾州細川藝州四

藩江征伐被仰出候趣比節江戸表ニは官軍居不申由徳川海軍之回

大丸回陽丸始として軍艦其外ニも十二艘仙臺寒風沢江向下り最早

五艘着船引續参候趣陸軍方三千人海軍方三千人参候由既ニ陸軍方

二千人着ニ相成候由爰元江は教導方着致候趣ニ而相廻る軍艦方追

々津軽秋田海岸江相廻候筈御座候加州公ニも同盟御主張ニ而越後

路江御繰出しと申事今朝罷帰候宮沢貫兵衛申上候事

九月朔日

土深井村御宿陳御役人中より申来候

御用状之趣左之通

筆令啓上候然者今般御城下表より被仰遣候御趣意柄有之秋田藩

江應接ニ及候処早速久保田表江立戻り九條殿江申立両三日中右御

秩拶可申旨申聞候尤双方炮発等無之積ニ御座候間比段御人数江訂

被仰達候且御境口之御警衛は厳重御手宛可被成旨佐渡殿丹後殿

御達ニ御座候右御心得旁申入候以上

九月廿一日

九月廿一日横田季之進

沢出善平

小枝指柳五郎殿

杉村岩治殿

田中武左エ門