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天山堂文書奈良寿
天山堂文書というのは、毛馬内の旧家高橋家に伝わる文書の事であ
る。高橋家の系図によれば、高橋家二代目三十郎(市左エ門)が、号
を鶴斉天山堂と称した事から、家号を天山堂というようになった。陥
って天山堂文書とは、若松屋高橋家文書の別称である。
天山堂文書は貞享四年(一六八七年)から明治に至る民間の雑多な
記録で、簿冊一〇二冊手形諸證文書簡等千数百点からなる厖大なもの
である。天山堂は地主、酒造業、木材山師、金融など多くの家業を持
ち、傍ら永く毛馬内町検断などの町役人をつとめていたので、中野家
北家などの家老職が認めた御用留と違い、庶民の立場から庶民の生活
を生き生きと描き出している。封建社会の真実の姿を知る上で貴重な
資料と思われる。
入山堂系図は本系の分は紛失し、分家高橋七郎兵衛家に伝わる写し
と、豊口九十九の子孫で戊辰戦争に勇名をはせた喜陸が写したものの
二通りがある。内容は大同小異であるが、前者は「元祖高橋基勝、寂
光院賢学義道大禅定門、俗名三左エ門会律若松より来る」とあるのに
対し、後者は其の子「基直三郎太郎又は三太夫、羽州秋田より来り白
根に住し、毛馬内氏の頼みにより文禄三年九月搦手長屋に住す」とな
っている。後者を書き写した豊口喜陸は、「此の系図何れより来りし
や不知眼にふれし故写し置く。熟視するに時代年号人名等齟齬、全・
真正のものにあらず、必ずや後世の作為なるべし。」とある通り、後代
の人が家傳に基いて整理作製したものであろう。元祖基勝は法名から
いっても然るべき身分の人であったと思われる。家傳によると、会津
若松九十一万石の領主郷生氏郷の部将で一城を預っていたが、故あっ
て浪人し、白根に流落したといわれている。両系図共基勝の子基直を
初代としている事から、実際毛馬内に来たのは基直と思われる。
二代基高は、通称三十郎又は市左エ門と云い、鶴斉天山堂と号した。
基高は実は秋田実季の臣大高豊前の二男で、慶長元年十月高橋家の養
子として毛馬内に来住し、寛永十六年七十五歳で没したとある。南部
藩は旧秋田氏の時代から犬猿の間柄にあるので、秋田氏重臣の二男を
養子に迎えた事が真実であれば、何等かの形で羽州とかかわりがあつ
たと考えられる。随って高橋家は直接会津若松から鹿角に来たのでは
なく、羽州秋田を経由して白根に流落したとする方が常識的である。
毛馬内には会津若松から移住したといわれる家が、伊藤、石田、豊
口、高橋家など数家あり、そのうち若松家を屋号にしたのは豊口家、
高橋家であるが、通称若松屋といえば高橋家の事である。
高橋家は鹿角移住後何を生業にしたかはっきりしない。開拓に打ち
こんだとも白根を舞台に商人であったともいわれている。後代になる
とはっきり商人として巨富を積み、土地を買い求めて地主となってい
る。永年検断等の町役をつとめ、一方献金によって御給人となってい
て、商業-地主-御給人の定石的なコースをたどっている。
天山堂の最盛期は、約三百年前の元禄、宝永の頃であった。生業は
商業金融であったが、記録で見る限り、貞享から十数年で産をなした
もののようである。
貞享五年辰の年(九月三十日元禄元年と改元)
一、本百四拾貫百三拾壱文
但し在々にかし、売残り物等入テ此利弐拾九貫文
が、それから十六年後には、
元禄十七年申正月(元禄十六年の決算