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一、本銭四千弐百弐拾壱貫五拾九立
但し金銭、売残り物、在々惣かし方入テ、此利壱割半掛テ
六百三拾三貫五拾九文
元利合テ、四千八百五拾四貫弐百拾八文
で、近々十六年で取引高収入は三十倍になっている。
天山堂が巨富を積むようになったのには、二つの事が考えられる
仕切目録
一、本銭千四百弐拾八貫五拾文
但し見銭(店か)売物残り、在々かし方等造、三割掛利銭
四百弐拾八貫十五文
二口合テ千八百五拾六貫四百六拾五文
となっていて、三割の利銭をとっていた。元禄七年に至っては、元金
三百貫文に対し、正月四日から八月廿七日までの九ケ月で利息百壱貫
二百六文の高利となっている。この頃の金利は、月二歩五厘が普通で
四割五割の金利もあったから、並はずれた高利であったといわれない
が、金融で産を築いた事も事実である。次は商人としての若松屋であ
る。加賀屋助左エ門からの預り證文には、小判六百九拾五両、外に為
替で五拾両、壱歩判で拾両、銀で四拾弐両の預り證文が出されている
この證文は己年三月晦日とあるだけで年号はないが、恐らく元禄十
四年のことと思われる。六百九十五両はよ印からう印まで十口になっ
ていて、その末尾に、
「右の通り預り参候。追而上方にて両替仕切下ケ可申候。為御覚之如
此御座候。以上」と認められている。上方での仕入金の輸送を頼んだ
ものと見える。それから七年後、宝永五年の京大阪の滞在日記の一部
が残っているが、滞在日数は四月朔日から六月十五日までの長期にお
たっている。珍らしいのは、京大阪でのかみゆいの記事である。二日
に一度の割りでかみゆい床を訪れ、身なりを整えて買付に歩いたもの
らしくその豪商ぶりの一端をうかがい知ることが出来る。何を仕入れ
たかもはっきりしていない。呉服太物以外に竹原塩の事も見えるの
で雑貨一般であったと思われる。こうして仕入れた物資は、どんな方
法で鹿角に運ばれたか一切不明である。恐らく御用銅の帰り荷として
持ち帰り、近郷に売りさばかれたと思われる。
地主御給人となってからの若松屋の持高もはっきりしていないが、
市左エ門が隠居するに当り、二男軍蔵、三男酉松を分家に出している。
記録によれば、持高三百八十六石九斗三升三合、内軍蔵に商人をつが
せ三拾石、当座の小遣百五十貫文、家蔵は控え目にして蔵は三間四間
位がよろしかろうとし、酉松へは地方三拾八石、御扶持方拾弐石都合
五拾石の給人株を譲っている。此の時既に家督は嫡子織之助が継いで
いたから、地主としても相当な地位をしめていたと思われる。
天山堂文書は昭和三十五年、滝氏によって簿冊五十四冊
年代記載のない簿冊二十四冊の目録が作られたが、そのうち十六冊程
不明となっている。御当主が大阪に移住するに当り、文書
の一切を十和田図書館に寄託された。それから数年後一家の私事に閣
する物もあるからと、一部の簿冊と手形證文書簡等を持ち帰られたと
の事であるが、そのうち十六冊の簿冊が紛失している。ここに紹介す
る目録は、毛馬内の旧宅に残る資料と合わせて整理したものである。
この厖大な資料の中から、宝暦五年「萬書留扣帳」「諸用書留帳」同十
年「御宿御賄献立書留帳」天明三年「御用向書扣帳」の四冊をとりあ
げて見た。この外貴重な文書が数多く残っているので今後解明して行
きたいものである。