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鹿角市史資料編第五集「天山堂文書」が漸く上梓の運びに至りまし

た。難解な解読に当られた各位に対し、深甚の謝意を表します。

天山堂文書は、明暦元年(一六五五年後年の写本らしい)から明治

二十三年(一八九〇年不動院文書などの写本)に至る三三五年にわた

る雑多な記録です。この間代々書き継がれて来たと思われ、筆録者も

十数人に及んでいます。大ていの文書は、一冊解読すればすぐ読み馴

れるものですが、この文書に限り、何時も新しい文書に接する思いで

読まなければなりませんでした。更にこの文書を難解にしたのは、記

録者が庶民であったため、宛字、俗語、方言が多いことです。現在殆

んど使われていない方言の意味を理解するのに、小一時間を要するこ

ともあって、読解は本当に困難をきわめました。この困難を克服し、

大部分の解読に当られた編集委員渡部幸三郎氏には、大変な御労苦を

おかけした事と思います。

然しこの文書は、読解は困難であっても、内容の面白さにつられて

一気に読了する魅力を持っています。天保百姓一揆は、鹿角始まって

以来の大事件であったにも拘らず、代官処や中野御用留では一言もふ

れていません。えてして役所の記録は、都合の悪い事は全部カットし

極めて事務的になっているものです。其の点天山堂文書は、当時の牛

活が生き生きと描写されていて、資料的価値も高く大変興味深い内容

となっています。

この度とりあげました「諸用書留帳」「萬書留扣帳」は、何れも宝暦

五年の文書です。後者は同年閏十一月からの記録で、諸用書留帳の下

巻とも補遺ともいうべきものです。御承知の通り宝暦五年は、花輪通

りで二六八四人の餓死を出した大凶作の歳であります。書き出しが

「宝暦五年亥歳凶作前殊の外田地安堵高直にて云々」とある様に、田

壱人役五~七貫文の高値でした。凶作が決定的となった其の年の暮に

は、「凶作に依り世上人不足の上、殊の外作地余り」となり、小作者

が死に絶え無償でくれた事などが書かれています。

次の「御宿御賄献立書留帳」は、宝暦十年の記録です。天山堂は、

御郡代、御銅山奉行、御境奉行が鹿角へ来ますと、必ずといってもよ

い程御宿をつとめています。その時の献立が、奉行方と下た衆に分け

克明に書かれています。その中には八寸、ごしん、坪、角といった余

り聞きなれない料理もありますが、当時の食生活を知る上で大変よい

資料だと思います。

天明三年の「御用向書扣帳」は、御給人となってからの高橋佐市右

〓門が書いたものです。天山堂文書としては珍らしく御用留の様

式をとっています。天明三年も大凶作で、藩財政は火の車でした。

よくもこんなにまでと思われる程、頻繁に御用金や御買米を仰せつけ

られています。天山堂はこの上納に大変苦労しています。度重なる献

金で祿高は百三十五石にもなりましたが、町家はそのまゝ商人として

営業を続けていました。珍らしいのはこの歳、豊口弥三右エ門、高極

佐市右エ門の両人に御救質屋会処を申しつけられていることです。会

処設立に至る造の記録、組識など当時の庶民生活を知るよい資料と思

います。安政七年の「御沙汰留帳」は頁数の関係で割愛いたしました。

この中には小判改鋳に関する記録がありますが、厳しい命令にも拘ら

ず、旧小判と両替する者がなく、慶長小判などは百両と五四八両と☆

換したとあります。この外捨て難い文書が多く、折りを見て是非資料

化したいと思います。とりあえず全文書の目録を添えましたので、興

味を御持ちの方は、市史編さん事務局で御覧いただきたいと存じます