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あとがき奈良寿

市史資料編第八集は、第六集の後を承けて「花輪南部家御用留」万

延二年から元治二年までの五冊を収録しました。この御用留は、以前

「花輪町誌編纂資料・第二号」に天保二年から十四年までが、また、

弘化二・三年は市文化財保護協会の「上津野三・四号」に出ていまオ

し、第四・第六集と今度の第八集、次の第十集まで収載の予定です。

従来は花輪南部家家老が書いたものを載せましたが、欠本があった

ので、文久三・四年、元治二年の三冊は、御用人衆の筆録をとりました。

解読は、万延二年・故米田金右衛門氏、文久二年・渡部幸三郎氏、

同三年・竹田正孝氏、同四年・中島健治氏、元治二年・佐藤政治氏の

諸氏が当られました。総括の栗山文一郎氏と、佐藤政治氏、竹田正孝

氏、及び、あらたに花輪史談会古文書を読む会の田中賢治氏、川村功

氏、佐藤和子氏の諸氏が加わり原本との照合を行ないましたが、十年

前の不鮮明なコピーなので、解読照合共に困難を極めました。この衝

に当られた上記の諸氏に深甚の謝意を表します。

資料集は難解であるとの評に応えて、第七集から句読点をつけまー

たが、忽忙の折短時間でいたしましたので、適当でない所も多いと存

じますが、御了承下さる様お願いいたします。

万延二年は、二月十九日文久と改元されていますので、正しくは文

久元年御用留と申してよいと思います。この年は、皇女和宮の江戸下

向の是非をめぐって国論が沸騰し、諸外国の軍艦が四境に迫って安政

仮条約の実行を迫るという、内外共に多難の年でした。辺境の地鹿角

にもこうした世情を反映してか、銅製品や米麦をみだりに外国人に売

ることを厳禁する旨の通達が載せられています。又、前年勅許を待た

ず安政仮条約に調印した井伊大老を斬殺した水戸浪士、柴田市之助外

四人の探索手配書などが散見されます。さらに大船建造を厳しく取り

締ってきた幕府は、建造はおろか外国船の購入を庶民にまで許可し、

航海術に不馴れの者には按針の者、水夫を貸すことまで通達しています。

又久二年は、さらに世情騒乱となり、老中安藤信正が坂下門外で水

戸浪士に襲われ、島津久光の先駆が神奈川生麦において英人を切ると

いう事件がありましたが、こうした事件も一早く通達されています。

刀延元年は不作で、穀物をはじめ諸色物価が高騰しました。庶民救済

のため物価抑制のことなどが見えています。献金による家臣への取

瓦ては、当初拾両壱石が相場でしたが、藩財政逼迫のためか、大里委

助は金百両で拾五石の御加増がなされています。

文久三年、心配されていた英国艦隊と薩摩藩の交戦があり、さらに

長州藩は英米仏蘭と兵端を開きました。南部藩は海岸線が広いので、

仮令勝算がなくとも、不得止事尽死力防戦の通達を出しています。花

輪では星場で射撃の訓練を行ない、坂の脇の道場で盛に武芸の〓古を

しています。この道場が大破したので、しばらく稽古を休んでいまー

たが、吉田新六をはじめ御給人一同で諸懸りの半分を負担、再開して

います。財政はさらに苦しく、献金による御取立が盛に行なわれてい

ます。菅生冨人七拾五両で拾壱石、根市権左衛門五拾両で七石、奈良

辰平百両の献金で拾石加増されています。個人によって加増割合の異

なるのは、献金者の身分から来るものと思われます。

文久四年で特に目立つのは、浮浪の徒取締りが厳しくなったことで

す。この年は二月二十日元治と改元され、元治二年は四月七日慶応と

改元されています。いよいよ維新の大動乱を迎えることとなったわけ

で、行間に秘められた世相を読みとっていただければ幸いです。