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解題

栗山文一郎

花輪南部家諸御用留帳は、天保二年(一八三一)から明治三年(

八七〇)まで江戸時代末期四十年間にわたり、幕末激動期における盛

前藩重臣・花輪南部家にかかわる出来事を細大洩らさずに記録した口

記帳である。これには花輪南部家内の家老席のものと用人所のものと

の二種類があり、各一冊ずつ年毎に書かれたものらしい。右四十年間

において、双方共揃って有るもの、何れか片方だけ残っているものな

どその年によって異り、天保十年と十一年の分だけが両方共欠けてい

るほかは、家老・用人どちらかの一冊は残されている。なお、家老

用人双方の内容が重複しているものが半分以上を占めているので、晉

料編の収載には殆んど家老席のものを充ててきた。だが欠本の場合と

か、より内容が分明であり理解し易いとおもわれた場合の、天保十三

年、文久三年、同四年、元治二年、慶応四年、明治二年、同三年のも

のについては用人所のものを採用した。

花輪南部家は、初代が中野修理康実と言い、南部藩主二十六代信声

に仕え、初め斯波氏の女婿となり高田氏を称したが、その後岩手郡中

野村に住み中野氏と改めた。主君信直が斯波氏を攻め滅ぼし、更に康

実の兄九戸政実を討伐した時でさえも、一貫して終始忠勤を励んだと

いう功績により特別な信任を得て重用され、以後代々「吉兵衛」を称

し、遠野南部(八戸氏)および大湯南部(北氏)と共に御三家と呼ば

れた。文政元年(一八一八)にいたり、さらに南氏と東氏を加えた

五家が、往古よりの家柄であるとして「南部氏」の姓を用いることが

許された。知行三千石のうち半分の約千五百石を花輪附近から"旦那

様斗代"として取得、花輪城本丸に陣屋を置き、国境警備の重責を担

った。しかし入部当時の幕藩体制成立直後の頃を除いては、その後泰

平の世が続くなかで政治向の要職-家老に就いて盛岡城下に在り、時

たま花輪に出張、短時日滞在する程度となってゆくのである。従っイ

盛岡の屋敷にも在府及び近郷の家臣が数十人も勤務し、花輪の御本如

御屋敷からは絶えず連絡を取って居るのみならず、勤番交代で盛岡忌

敷に出仕していた。花輪在住の家士は天保年間頃は四十五人を数え

その後は分知や新規召抱によって増加、明治元年には六十六人となっ

ている。御用留帳に見える御本丸御屋敷とは、実質的に支城の性格を帯

びてはいるものの、文化元年(一八〇四)公義の定めた一国一城制に

則り、以後は館(だて)と称え、要害屋敷と公称した。花輪の場合要

害屋敷の本丸に在ったことから、御本丸御屋敷と呼ぶようになった。

文化元年三月書上本城-盛岡枝城-花巻

要害屋敷-花輪毛馬内野辺地七戸遠野

慶応四年、戊辰の戦火いよいよ東北におよび状勢急なるにしたがい

帝部吉兵衛は藩命を承けて鹿角郡全域(花輪通・毛馬内通)の御給人

をも指揮下に入れて軍備を整えるべく、四月には一家を挙げて花輪に

移った。これは収載の「済愛公両鹿角御警衛ノ為花輪江入ラセラレ候

二付諸御用留」及び「済愛公両鹿角御警衛仰セ蒙ラセラレ花輪江御引

越御道中之日記」に見られるとおりであり、道中の風情が濃やかに描

写されている。従来御用留帳の解読に当っては原書に忠実なるを旨と

し、例えば漢字のみ並列してある場合にも返り点や送り仮名は附けず

また当て字の場合もそのままとして登載してきた。しかし読者の一部

にもっと読み易くしてもらいたいとの要望も有る由なので、この二筈