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は旅情の表現が豊かで内容も平易であるため、初めての試みであるが
"読みくだし文"としてみた。また慶応四年の分の続きよりも前に収
載した。
その後状勢はますます逼迫し、藩家老の楢山佐渡が急據京都より帰
国、京師における薩摩・長州の専横に対する抑えがたき噴懣と仙台藩
の圧力も有って、奥羽同盟に違背の秋田藩を討つという藩論の統一を
見た。佐渡は自ら総大将となって最前線に戦うべく、盛岡諸士を率い
鹿角両通の御給人もすべて第一線の先鋒嚮導隊として投入、左のよう
な配陣を行った。
、土深井↓十二所口先鋒花輪隊一番手二百余(所給人与力以下)
総督家老楢山佐渡手昭武隊剣鎗小隊発機隊鉄〓三
小隊烏蛇隊鉄〓一小隊計戦士五百五十余
一、三ツ矢沢↓別所口先鋒花輪隊二番手百五十余
新番組石亀左司馬地儀隊計戦士二百余
一、瀬田石↓葛原口嚮導ほか毛馬内給人以下百余
参謀家老向井蔵人手昭武、発機、烏蛇、大砲各一隊
御番組桜庭祐橋天象隊及び手勢二百余計六百余
一、新沢口嚮導ほか毛馬内給人隊二百余発機、烏蛇各一隊
新番組足沢内記地儀隊計三百余
、後備〓津軽押へ小坂濁川口南部監物手勢-大湯家士
〓花輪堅め十二所進駐南部吉兵衛手
一、大葛口雫石より転用高野恵吉預り発機隊、方円隊各一
これに見る通り、南部吉兵衛は自らの家臣部隊を率いて三ツ矢沢・
別所・十二所の後堅めとなり、治安警備のため駐屯する役目に切り換
一、後備
えられたのである。従って御用留帳に残された戊辰役陣中記録は花輪
南部吉兵衛部隊の動きが主軸であり、戦線全域にわたる記録ではない。
だが基地と前線を結ぶ中間に在るために、日々入って来る戦況や増強
のため前線に赴く通過部隊の把握などが、これによっても窺知し得る
慶応四年の御用留帳は、こうした特殊事情のため例年に比べて分厚
であることから、前後二つに分けて七月までの分を資料編第十集に、
八月以降の分は第十二集(本集)に収めた。
戊辰役の終了、さらに、翌明治二年の藩籍奉還のあと、新体制への
移行は必然的に鹿角を見舞う運命であった。旦那様-南部吉兵衛が従
来の俸禄から離れ、花輪を引揚げて盛岡に帰る日が刻々と近づくに「
れ、別れを惜しむ士民が連日御屋敷を訪れて挨拶するやら、おみやげ
を交換するやらということになった。明治二年の御用留帳にはこの情
況が手にとるように記され、しかも記帳の筆跡が乱れ勝ちなのは、恰
も太平洋戦争終結後における国民の放心虚脱状態にも似て、哀れな心
情がうかがえるのである。
花輪南部家諸御用留帳は、さきに高瀬吉五郎氏によって解読された
もののうち、天保二~十五年の分は「花輪町誌編纂資料第二号」に、
弘化二・三年の分は鹿角市文化財保護協会機関誌「上津野」三・四号
に載せてある。引きつづき弘化三・四年と嘉永年間を市史資料編第四
集に、安政年間を同第六集に、万延・文久・元治は同八集に、そして
慶応二・三年、四年七月迄は同十集に、慶応四年八月以後明治三年ま
での分はこの第十二集に収めたことによって一応の終結をみた。これ
は花輪史談会・古文書を読む会の有志が中心になって解読し、また校
正に当ったものである。