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毛馬内通『御用留』について
安村二郎
本収集載の毛馬内通『御用留』は、前回の『鹿角市史資料編』第十
五集につづく、その後半部分である。即ち前回の弘化・嘉永期のあと
を承けて、安政三年から明治五年までの分が収められている。
この御用留については、前回解題に詳しく述べられた通りである。当
時の毛馬内代官所下役加の職にあった勝又周治等の筆によるものと推
測されるが、近代の黎明を告げる維新前夜から明治初頭に及ぶ貴重な
資料である。
鹿角郡は、戊辰戦争を契機に盛岡藩の手を離れ、松代藩所管、九戸
県、三戸県、江刺県、秋田県とめまぐるしい変転にさらされたため、こ
れまで全くといってよい程代官所記録の所在を知ることができなか「
た。東北大学国史研究室の好意によりここに掲載できたのはまことに
幸いなことであった。
注目しなければならないことは、藩政時代の代官所下役層が、明治
改元後の変革にもかかわらずなお引続き『御用留』を書き継いでいる
事実である。その経緯については今のところ不明の域を出ないが、明
治三年『御境御用留』(石川智子家文書)等をみても、明治三、四年江
刺県治下にあって、なお旧藩時代の御境古人が「是迄ノ通リ仰セ付ケ
ラレ」「先例ノ通リ」その職務を遂行していることが知られる。これら
の事例を思いあわせると、明治維新は革命的な政治変化であったが、町
村末端の行政実務者は明治四年の廃藩置県・郡県制度あたりまで藩政
時代とあまり変わりなく、その面においてはゆるやかな改革でなかっ
たかと思われる。
安政三年(一八五六)『年々御用留』には、この年盛岡藩主利剛が四
月から五月まで領内奥通りの海岸を巡視し、沿岸防備の強化を図って
いるが、その行列と順路の書上、夫伝馬の覚などが記されている。帰
途に鹿角郡へ立寄るかも知れないという内報があり、その準備に追わ
れている様子が手にとるようである。なお『大湯下陳宿手配向調帳』に、
大湯の宿舎における諸道具、食料品、人馬の調達等が明細に記され、そ
の規模の大きさに驚かされる。
又久三年(一八六三)『御用留』には、藩主利剛の参府、引続き京都
守衛のため上洛。その御用金として毛馬内通へ一五五両を割当ててい
ることなどが掲げられる。
文久四年(元治元年)『御用留』は、筑波山の変や蛤御門の変などに
ともなう浮浪の徒の取締り強化を命ずる幕府通達が目立ち、御境番所
は厳戒態勢に入っている。
兀治二年(慶応元年)『御用留』は、閏五月藩主参府のところ九月病
気療養のため帰国、ほか新田披立、古銀古銭等の引替、棒木〓方など
の御沙汰書写が目を引く。
慶応二年『御用留』には、毛馬内の文武場建設懸りが命ぜられ、官
所における経義講釈を月々三八の日に行なうとの示達があったこと。西
洋銃隊訓練のこと、将軍家茂の死去など、騒然たる世情を垣間見せて
いる。
明治三・四・五年『御用留』は、江刺県花輪役所、秋田県花輪詰か
らの布達、告諭等を通して、明治初期の民政、勧業の概略など、これ
まで殆ど資料のなかった部分を埋めてくれる。
(市史編さん室嘱託)