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だったろうが、いま残る原本はすべて同一人の筆跡でまとめられてい

て、おそらく後年の集成と思われる。

この一件は、寛延四年九月二四日石田庄之助から左内・弥五兵衛父

子へ、義絶の断りを入れたことに始まる。同年一〇月二七日宝暦と改

元され、事の落着は宝暦三年酉の三月までの長期にわたっている。義

絶の理由は初め、庄之助親儀左衛門の死去以来内外ともに相談のこと

もなく、出入りさえも止めていることへの抗議からであった。次々と

繰返されるやりとりにより明らかになったことは、子弥五兵衛を相談

なく福岡給人大森甚右衛門の養弟とし身帯一五石に立身させたこと。

その大森弥五兵衛を誓願寺から福蔵寺へ宗門替えさせようとした時も

相談のなかったこと。大湯領箒畑村に所持する田地について、本家に

相談なく公事(訴訟)沙汰としたこと。前川普請の折蛇篭を押出し

庄之助の普請に殊の外障りとなったこと、等々であった。加えて左内

が桜庭家より御用金一五〇両指上げるよう命ぜられ、それを拒否した

ことも同家内役人の心証を害する要因となった。その結果老令かつ病

中の左内を聟弥兵衛へお預け蟄居、家屋敷取上げという苛酷な処分に

付したことは、封建社会におけるきびしい身分統制の実態を物語るも

のというべきであろう。

覚牒』は、表紙書きに文化一〇年とあるが、天明四年高橋

佐市衛門五〇石召出されの際の由緒書上に始まり、天保五年の「各御

給人ニ被召出候節ノ身帯高」書上に終っている。天明四年九月の嫡子

七九郎と嫡孫善助の病死による二孫六太郎(縫之丞)の嫡子願、縫之

丞二男春松、同三男辰五郎、同嫡孫六太郎、同二孫米松等の出生届、

春松の養子縁組願、三孫力之助の病死届など、毎年七月の由緒出入書

上にかかわる内容がおもである。なお縫之丞の代、身帯五五石四斗六

升五合のところ「寛政八年辰二月御取戻被仰付、当時御金方拾八石被

下置」とあるのは、例えば『岩手県郷土史年表』寛政八年の項に「こ

の年盛岡藩北部地方の天明度よりの俸禄を改め、すべて蔵入とし後理

米を給与する」とあることと、深く関わりあうものであろう。

「古今諸御用留帳』には、冒頭に寺坂村の百姓共が同村理助善兵衞

を打殺した事件により、それぞれ五戸、大槌、七戸、宮古、三戸へ追

放となったことが記されている。年代は不明であるが、その代官名に

より嘉永三年七月に起った惨事と思われる。その追放の「道中手錠打

宰領御同心弐人宛附」という表現に、いっそうの哀れさを覚える。

事件といえば、江戸町奉行遠山左衛門尉組小林更十郎、大沢藤九郎

が急御用向で鹿角へ入ったのは、いかなる探索目的によるものであっ

たろうか。どの書状も五月とのみで年代を欠くが、遠山左衛門尉の汀

戸町奉行在任は二期めで弘化二年三月から嘉永五年三月までの間、壬

馬内代官谷地左久馬、今渕半九郎両人の任期の重なりあうのは弘化

年一月から同三年一月の間であるから、江戸町奉行所役人の鹿角下り

は弘化二年五月のことと特定できる。

広増寺社領、月山社祭礼次第の次に、北九兵衛、桜庭兵助、赤尾又

兵衛の入部の年月を記し、例えば「寛文五年より明治七戌年迄ニ、弐

白十年ニ成る」などとしていることから、この『古今諸御用留帳』け

明治七年前後の成立と思われる。「毛馬内通御代官処之内館ト唱居候

所」の文化九年書上は、村々に残る館についての当時の認識を示すも

のとして興味深い。

「御用留』は、嘉永五年から同七年(一一月二七日安政元年に改ま

る)に至る毛馬内代官からの諸達し書を収めている。末尾に安政五年

の分が一部加えられている。