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一、『銅山記』について

「銅山記』は、岩手県図書館の所蔵にかかるものである。盛岡藩

において、明和二年(一七六五)一〇月尾去沢銅山を御手山(藩直営)

とし、以来御銅山と相唱え申す可き事」を申渡してから、御銅山は

もつぱら尾去沢に限っての呼称となった。同図書館には御銅山関係の

文書として、この『銅山記』のほかに、『銅山秘録』(天保一〇)、『尾

去沢銅山記録』(鍵屋茂兵衛関係書)、『尾去沢銅山砒通』(原書名尾夫

沢御銅山三沢並赤沢永坂崎山砒通之図)、『御銅山・後』等が蔵されて

いる。なお同じ盛岡市内所在の銅山文書としては、盛岡中央公民館郷

土史料のうち、『銅山記』(尾去沢銅山御用留)、「尾去沢銅山図」、『=

法之事』、「尾去沢田郡御鋪内図」、「尾去沢元山御鋪内図」、「尾去沢赤

沢御鋪内図」等が知られている。

この『銅山記』の内容は、銅山の経営、作業行程、元山・田郡・赤

沢三沢砒通、釦万役所吟味向、釜燃込仕様、床屋白吹・真吹吟味方、

焼釜、吹子、御擬定目、道法並諸駄賃、御扶持渡方定目、諸働方定目、

米搗定目、木挽働定目、春木炭、給代増ほう美、御手宛御代貸し、十

分一取立、山法之事など、銅山にかかわる万般のいわばエンサイクロ

ペディア的なまとめとなっている。

銅山記』初めの目録の部分には、「岩手県立図書館蔵書印」のほ

かに「新渡戸文庫」の細長の蔵書印がおされているので、原籍は同文

庫にあったことがわかる。本書全体がいつ成立したのかは、その年代

の明記を欠くことから、結局収めてある書留や定目のうちもっとも若

い年代で推測するよりほかはない。三沢砒通附釜之口」の項に、勢

沢大剪鋪釜〓卯辰向キは安永三年から普請に入り去丑年迄都合廿ケ年

で取付いたとあり、その丑年は寛政五年のことである。「御表江両鹿

角拾分一相加上納之事」の項に、銭八百貫文の内五百七拾貫文は下手

代盛岡拾三日町多右エ門が、寛政八年三月御為増五拾貫文を加えての

上納であるとしている。さらに寛政九年における「釜燃込春木」「木

炭渡方」についての記載があり、結局この寛政九年(一七九七)がも

っとも新たな年次となり、一書としての成立は寛政九年以降でなけれ

ばならない。

ここには銅山経営が、諸役人から金工働きの大工、堀子、岡働きの

諸職各層の給与、設備、作業細則など、全般にわたって精密な基準

定目にもとずいて行われている様子を、具体的に記している。

銅山が御用銅、為御登銅として幕府より指示された数量の荒銅を生

産するためには、莫大な原資材を消費する。天明六年出銅高六三万六

六七八斤のために消費された諸品として、食料を含めた一一三に

ついて、「天明六丙午年尾去沢御銅山御直段御買入諸品代大概」の項

に明細をのせている。いわゆる上方からの移入も多く、茶、塩、木綿

などのほか若狭紙、卯田紙、豊後切紙等があった。鉄は別項に野田鉄

とみえている。為御登銅一箇は「正味拾弐貫三百五拾匁ちよめニ致、

それ江縄莚風袋皆掛拾三貫目ニ成ル」との定めで、一二貫は七五斤で

あるから、六三万六、六七八斤は八、四八九箇というたいへんな数と

なる。従来、三つのルートがあって、西海廻り野辺地湊出し一箇七五

斤、同じく能代湊出し一箇一〇〇斤、東海廻り盛岡新山御船所より川

下げ石巻湊出し一箇七五斤ときめられていた。

二、「御銅山御定目并御役人登山の砌被仰渡扣留」について

この分は、尾去沢阿部家所蔵文書のうち、表題に『御銅山御

定目帳』とある文書の、はじめに収められている部分である。まった