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く同じ内容が、同家所蔵にかかる『御銅山記』のなかにも書き出され
ている。
盈岡藩は、明和二年尾去沢銅山を御手山とし、一〇月一三日坂牛新
五左衛門を銅山御用懸元締に任じた。坂牛は一一月三日に尾去沢到着
の上、翌四日に山内諸役の者はじめ、鋪懸り、岡廻りの者どもに対し
て、冒頭にある通りの「この度御手山を仰せ付けられたこと」、「御銅
山一件取扱方坂牛新五左衛門へ御任被成候間、山内之者共下知に随ひ
出精相勤可申事」などを申渡した。なお銅山御手山となるにおよんで、
中野氏支配の花輪町が花輪通代官所支配に引き渡されるなどの、地
に及ぼした影響も大きかった。
坂牛新五左衛門登山申渡之覚」では、まず御用銅御定数七千箇の
完遂をめざし遅滞のないよう、定目の釦(鉱石)を越える量を出し兼
ねる者に対しては、その切羽を取上げてしまうこと。出釦の根元は人
勢にあり、かつ銅山の栄久は山内一致にあるので、すべて我意を退け
相勤めること。質素を旨とし、小唄浄瑠璃など遊山がましきこと決し
て無用など、もっぱら厳格な態度で綱紀粛正にのりだしている
その後も頻繁に御銅山御用懸の登山があり、廻銅不足の挽回に必死
の山元督励を行っている。
○明和八辛卯年御勘定頭江刺家兵左衛門登山ニ付於御台処被仰渡書左
之通、尤石川門次郎御書付を以被仰渡
○奥瀬伊右衛門田鍍久之丞并石川門次郎荒木田兵右衛門登山ニ付被仰
渡書左之通
○明和九壬辰年御勘定頭太田忠助御吟味役松田佐次右衛門登山ニ付〓
仰付之覚
○安永二癸巳年御縣御勘定頭江刺家兵左衛門登山ニ付被仰渡之賞
○安永二年巳十月御勘定頭太田忠助御吟味役松田佐次右衛門登山ニ付
被仰付之覚
○安永四未六月御勘定頭太田忠助登山ニ付被仰渡之覚
○安永四未十二月御留主居見習川嶋又左衛門御勘定頭格松田佐次右衛
門登山ニ付被仰渡之覚
○右同年御勘定頭松田佐次右衛門登山ニ付被仰渡之賞
右の被仰渡書には、それぞれ藩の苦悩と焦燥感がにじみでている。
三、『御銅山御勘定目并諸積大凡調』について
表紙は表題を記すのみで、裏表紙に「安政四丁巳年/六月/信扣」
とあるものの、筆写の年代、筆者については必ずしも明かでない。年
代は、前半御定目書の部の末尾に「右之條々明和二年御手山始より此
節迄之所御取調巳来之御定目被仰出/嘉永二年酉年二月/土佐/伊
〓/駿河」とあるので、後半の御銅凡積覚を含めて、嘉永二年(一八
四九)とみて差支えないと思われる。連署三人は南部土佐、花輪伊豆、
三戸駿河でともに盛岡藩家老である。
前半に、三沢ごとの役方と働人数、扶持と給代、蝕賃、役屋物渡
方、手宛、竇燃込・白吹・真吹等、長木、大炭小炭、春木駄賃など諸
般にわたる定目をくわしく記し、後半で銅吹方入料積、白吹入料、真
吹入料、三沢本番入料およびすべて人数の給代、扶持米、味噌、塩
ほうび銭、諸資材について、その積代銀を明細に書き並べている。見
るところ前半で積算の基礎を示し、後半その予算書を作成しているも
ののようである。