テキストを表示
解題
本集には、毛馬内田中家文書『諸用書〓』をおさめた。
この書留帳は、鹿角瀬田石住の鋳物師田中彦兵衛の子平左工門が
父の没後文化十二年から嘉永七年(安政元年)まで、二十六年間にわ
たり、多彩な内容を繁簡自在に記録したものである。
ただ惜しむらくは、「此長(帳)面ほごし候二付、前後忘却ニ相成
見る人年号順ニ気を付ケ可申候条」と断り書のあるように、一時この
大部の横帳がばらばらにほぐされ、その後元どおりにもどせず、仮綛
のまま伝えられてきたことである。この度、できるだけ年代順になら
べなおすよう努めてみたが、順序不明や、欠けたまま前後につながら
ない文章がでたりで、思いのほか難儀な作業であった。
田中氏は、鎌倉時代から近江国栗田郡高野之庄辻村に居住し、連綿
として鋳物師の伝統を伝える名家であった。その墓誌銘によると、父
彦兵衛より四代以前の祖が「享保十二年遥カニ東国ニ来テ此瀬田石品
に居住、而シテ鋳物師ノ業ヲ為シ、其職自然二繁栄シテ名ヲ遠近ニ仁
ヘタリ」という。田中氏の作品のうち市内に現存するものは、花輪専
正寺の殿鐘と芦名沢観音の鰐口の二例のみであるが、いまも各地にそ
の作品例が残っている。
同じく墓誌銘に「然ルニ文化六年巳年不慮ノ災難ニ値イ、父子兄弟
処々ニ分離シ、田宅器財盡ク散失シテ職業モ殆ンド断絶セント欲ス
とした、その文化六年に何事が起きたのであろうか。本書羽帳の冒頭
に、文化六年六月末瀬田石村を引き払って北監物家来山口庄之進の世
話により、大湯上町に同十一年二月まで住居した、とあることに直接
かかわるのだが、「不慮ノ災難」そのものに触れる個所がない。
文政七年三月廿六日の項に、秋田領内鍛冶衆や阿仁銅山で使用する
鉄を、八戸領大野鉄山より買い付けるに際し、秋田久保田大町辻久左
〓門・白木屋伊兵衛らの依頼をうけ、平左エ門が案内と世話に立って、
領境沢尻村における鉄数十駄の取組がなされたこと。また天保二年
月七日の項に、八戸鉄を秋田領へ移入の目的で大館町山谷弁蔵が八戸
へ出張するに当たり、平左エ門は八戸鉄山支配人石橋徳右エ門へ紹介
の添状を書き、仲介の労をとっていること。これらはいずれも先代彦
兵衛までの、代々における八戸鉄山との取引の蓄積が生んだ信頼関係
の余慶というべきであろう。
しかし長年にわたり築きあげた鋳物師田中家の基盤が、一朝にして
覆る不幸な事態をむかえることとなった。盛岡藩家老席日誌『雑書
によると、享保三年三月毛馬内町長兵衛が鍋釜類の鋳造販売を独占す
る新鍋座を願出て許され、さらに文化七年長兵衛は両鹿角永久吹方を
も許されその特権を一手に握ることとなった。これまで同業者として
営業を続けてきた田中彦兵衛の無念さは、十分察することができる。
この書留帳冒頭の記事によれば、文化六年彦兵衛はいったん大湯上
町に移り、五年後の同十一年ふたたび瀬田石村の旧宅へ戻った。直ち
に仕事にかかり「釣燈鋳立森岡御城榊山大明神へ奉納仕候、其後猶々
本職鍋釜吹支度仕候所毛馬内御役屋より御差留ニて大ニ迷惑仕候」
さらに文化十二年十二月四日の項には「先祖共より数代仕来候職躰も
去年親存命之節吹支度迄仕候処、其筋より両鹿角毛馬内町長兵衛一手
二願上被仰付居ニ付、為吹候儀難相成御差留に寄り、去年中形拵等も
致居候処相止め、夫より金屋働も打捨て」と切々の情を述べている。
すでに十二年九月には、彦兵衛は心痛のうちに死去していた。その後