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解題

本集には、阿部恭助の慶応四年『日記』をおさめた。

阿部恭助の日記は、かつて本資料編第二集(昭和五十五年三月刊

に、『あつめ草』文久三年より明治三年までが収載された。しかし

その『あつめ草』には慶応四・明治元年の分を欠いているので、この

日記』がその分を埋めるものとなる。あるいは戊辰の動乱の年とい

う意味で、はじめから別仕立てになっていたのかも知れない

阿部恭助は、当時尾去沢銅山の日払役所主役として活躍し、かつ好

正堂とも清風亭東月とも号して、多くの記録や俳句・和歌集を残した

文人でもあった。その生立ちは資料編第二集の解題にくわしい。

この日記には、近代日本を生む大転換期になった一八六八年の、星

去沢銅山のあわただしい山内の模様、御用銅の送り出しや頻繁な人事

往来、払底する薪炭等の物資調達など、とりわけ戊辰戦争に際して銅

山自衛の動員計画、戦況、戦後における他藩兵との応接情景などが

こと細かに書き記されている。しかもその内容は、銅山事務方責任者

として充分に正確で、他に類をみない記録性をもったものである

尾去沢銅山の産銅は、当時かなりの高水準をつづけ、慶応四(明治

兀)年七一万五、〇〇〇余斤と、前年の八五万余斤にはおよばないも

のの、銅山そのものは活況の中にあったとみられている。

産出の荒銅は、ほとんど幕府御用銅として、いったん野辺地湊へ渾

ばれ、日本海の西廻り航路で大坂へ送られるのが例であった。野辺地

湊出しは、山越えの多い駄送となるため一箇七五斤入一二貫目に包装

されていた。とすれば、単純計算でも七一万斤は九、四六〇箇余とな

る。一駄二箇であるから、宿継の伝馬であってもあるいは通し牛であ

っても、必要頭数は延べ四、七三〇頭というたいへんな数にのぼる。

平時であれば、藩の夫伝馬定目などが順調に機能し停滞することは

なかろうが、この年、戊辰戦争の戦火が鹿角にも波及してきた局面の

なかでは、果たしてどうであったのか気がかりな点である。

日記』から、各宿駅に宛てた野辺地湊向け御用銅の、宿継伝馬に

よる継立指令書(向触れ)をぬき出し、この年の出銅状況をみてみた

い。その発行日付と伝馬の頭(疋)数だけを揚げたが、一駄二箇であ

るから一〇〇疋は荒銅二〇〇箇の附出数となる。

月二四日一〇〇疋二月二八日一〇〇〓

二月三日一〇〇疋三月九日一〇〇疋

二月一八日一〇〇疋四月一日二五〇〓

四月九日一五〇疋四月一五日一〇〇疋

四月一三日一〇〇疋閏四月二日一〇〇疋

〓四月一一日一〇〇疋閏四月一五日一〇〇疋

〓四月二九日一五〇疋五月八日一〇〇疋

五月一三日一〇〇疋六月二五日一五〇疋

六月二九日一五〇疋七月七日一五〇疋

七月一三日一五〇疋七月二七日一〇〇疋

八月五日一〇〇疋八月一六日一〇〇疋

九月八日一五〇疋一一月八日五〇〓

一月一〇月五〇疋一一月一三日五〇疋

二月六日一五〇疋一二月一一日三五〇〓

右の合計三、四五〇疋(駄)すなわち六、九〇〇箇、ほかに通し牛