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によるものや別段御用の盛岡送りもあるので、騒然たる世相の中なが
ら、生産と大坂廻銅は概ね順調であったとみられる。大部分が三月か
ら八月に集中しているのも例年通りで、西海廻りコースは普通四月か
ら八月までとし、北西季節風の吹きだす旧暦九月以降の出帆は打切と
なった。積残しの荒銅は、野辺地囲銅として翌年に持越された
五月一六日、鎮撫副総督沢三位卿と薩長筑三藩の人数およそ五〇〇
人が、津軽へ向うため大館に宿陣した。津軽藩との折衡が成らず、副
総督一行は一〇日後川舟で能代へ移動するものの、その間秋田藩の人
数を加え鹿角へ押通るとの風聞がもっぱらとなり、鹿角では騒然たる
空気のなか急遽実戦体勢をとることとなった。尾去沢銅山は直接藩境
に接することから、土深井口での戦闘と三ツ矢沢村間道からの侵入を
想定し、支配人主役手代から三沢金工諸働など、約六〇〇人におよぶ
動員組織の編成を行った。『日記』の記事は、その際緊迫した状況と
あわただしい藩役人の往来、花輪出張銃隊の動きなどを克明に伝えて
いるが、いったん非常の場合には、銅山の金工諸働、大工、手子と
日々地底の敷内にあって過酷な労働に耐えている人々までが、戦場に
駆り出される不条理さには、耐えがたいものを覚える。
戊辰戦争いわゆる秋田戦さは、八月一〇日記事の「昨九日明け方
花輪通よし楢山佐渡殿土深井へ、石亀左司馬下モ新田すばり合双方よ
り打入、毛馬内より桜庭祐橘軍勢、即日合戦に相なり、昼湧上りへ」
り見分した処、三哲森より十二所平内まで焼打となり、火煙夥しく大
炮の音かまびしく、味方大いに御勝利と見え候」に始まる。
八月一二日「銅山人数、大葛口打入にて出陣、兵士田郡八組、元〓
八組、赤沢七組、獅子沢三組都合二六組二八六人、持賦り人足を加え
二二〇人余に相成り」、大葛を占領しばらく滞陣した模様。八月一八
日「銅山人数の出兵、下新田口へ元山五組・田郡五組、吉沢口へ赤沢
組」。八月一九日「下新田出兵人数一〇組残らず一本栗ノ木へ陣替」
八月廿一日「今暁一本栗ノ木へ尚又三沢より四組宛繰出し」、「今日大
葛へ打入残らず焼払う。三沢工兵三組山神堂に陣取り、その他は畑長
根に本陣を構える」。大館城攻略の翌八月二三日、銅山勢は大葛口よ
り扇田大滝に出て、銅山へ帰陣。お祝いに酒肴を頂戴し、明一日休息
し明後日より出精相働くよう、申し渡されている。
当初優勢であった南部軍は、八月二九日増援の肥前佐賀藩小城藩兵
と対戦、前山、今泉の戦線で敗退した後は後退に次ぐ後退を余儀なく
され、九月に入り大館放棄、敵陣はわが藩境間近く迫るに至った。
「日記』は再び銅山からの人数繰出しを伝え、九月二日下モ新田
空虚に付田郡元山より三組宛出丘」。九月三日「人数増強の命令にて、
下モ新田へ元山五組田郡二組、吉沢へ田郡三組赤沢五組」。ほかにも
兵粮輸送等に当たる銅山各組の動静が記されている
この『日記』のなかで、ひときわ目をひくのは戊辰戦中に取沙汰さ
れた誤報、デマの類いである。デマは民衆の願望の裏返しであり、自
藩の僥倖、逆転有利を期待する領民の切ない心情の現れでもある。九
月七日「毛馬内の風説に二條殿関白となり藩賊征伐を仰出され近々佐
竹へ仙藩三千人徳川旗本三千人差向けられると」、一〇月一四日桧
山から久保田迄放火九條殿佐竹侯湯沢へ逃行候」、一一月二三日「奥
街道白河から那須ケ原辺に東軍幾万人と充満し奥羽出兵のため待機」
等々を伝え、後世に貴重な資料を提供している。(安村二郎〓
(安村二郎記)