北広島の考古

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約1万年前に最終氷期が終わり気候が温かくなると、人間の生活は移動型の狩猟生活から定住型の狩猟・漁労・採取生活へと変化します。「縄文時代」の始まりです。北広島には平成31年4月現在62か所の埋蔵文化財包蔵地が確認されています。北広島で発見された遺跡の年代は、縄文時代早期から続縄文時代までで、約1300年前から始まる擦文時代の遺跡は未確認です。中近世のアイヌ文化期の遺跡は、チャシ(砦、館、柵、柵囲など)が2か所で確認されています。
 
時代区分本州北海道北海道と北広島市の歴史年表
2~30000年前 旧石器時代北海道に人が住みはじめる。
   細石刃文化がひろがる。
12000年前縄文時代縄文時代土器が使われはじめる。
  (草創期) 
8000年前 (早期)市内を流れる輪厚川や音江別川流域などの段丘上に人々が住みはじめる。
   竪穴住居に住み、貝殻などで模様をつけた土器がつくられる。
   (共栄1遺跡、美沢1丁目遺跡、冨ヶ岡遺跡など)
7000年前 (前期)気候が温暖になり、海水面が上昇、各地に貝塚が残される。
   繊維を含む土器がつくられる。(北の里3遺跡)
5000年前 (中期)ヒスイ交流※など、本州との交流が盛んになる。
   市内各地域(東部、西の里、大曲、島松など)に遺跡が残されている。
4000年前 (後期)道内各地にストーンサークル※や周堤墓※などがつくられる。
   市内の遺跡は低地帯にも広がりを見せる。
3000年前 (晩期)東日本に亀ヶ岡文化※が栄え、道内にも影響を与える。
   土器のかたちが用途によっていろいろに変化する。
2300年前弥生続縄文時代本州以南の弥生文化とは異なり、海と川、漁労の文化が発展する。
   (南の里2遺跡)
 古墳 琥珀のネックレスが流行する。
   金属器が伝わる。
1400年前飛鳥(592~)オホーツク文化期サハリンからオホーツク文化の人々が渡来する。
1300年前 擦文時代擦文土器がつくられる。
 奈良(710~) 市内では未だ遺跡が確認されていない。
 平安(794~) 北海道式古墳がつくられる(江別市、恵庭市で発見)。
800年前鎌倉(1192~) 土器が使われなくなる。
室町(1334~)南北朝安土桃山(1591~)アイヌ文化期交易による鉄鍋などの金属製品が使われる。
400年前江戸(1603~)(近世)松前藩が成立する(慶長9、1604年)。
300年前  市内中の沢、島松にチャシが築かれる(中の沢チャシ跡、島松川左岸チャシ跡)。
200年前  和人の地理探検記録などにアイヌ語地名としてシママップ、ワッチ、オテネベツなどの名が現れる。
100年前明治(近代・現代)島松駅逓所が設置される、中山久蔵が寒地稲作に成功する(明治6年)。
   和田郁次郎ら広島県人による開墾(明治17年)、広島村の開村(明治26年)。
★太字は、北広島の出来事です。

【解説】
※1 ヒスイ交流:
北海道と東北との間でヒスイや黒曜石などの鉱物資源の交易がありました。ヒスイは新潟県糸魚川産のものであることがわかっています。
※2 ストーンサークル(環状列石):
石を環状に配置した古代の遺跡です。主に青森県と秋田県北部、北海道では渡島半島を中心に道北を除く道内各地で発見されています。日本ではじめて公表されたのは明治19年小樽市の忍路環状列石です。
※3 周堤墓:
縄文時代後期後半に造られた大規模な集団墓です。地面に円形の竪穴を掘り、掘り上げた土を周囲に環状に積み上げることで大規模なドーナツ状の周堤が造られます。その区画の中に複数の墓をつくる形式を周堤墓といいます(千歳市キウス周堤墓群など)。
※4 亀ヶ岡文化:
亀ヶ岡遺跡は、青森県西部、津軽半島岩木川左岸にある集落遺跡。完形品を含む多数の造形的に優れた土器、土偶、植物製品、ヒスイ製の玉類などが出土しています。