北海道が歴史資料に始めて表れるのはいつでしょうか。『日本書紀(720年)』に「渡嶋蝦夷・夷(エミシ)」と呼ばれる人々が記されており、彼らの中心的居住圏は石狩低地帯だったと考えられています。その頃には積極的に本州との交易を行なっており、石狩低地帯の続縄文人が積極的に東北地方へ南下していったことも遺跡から確認されています。
南北の文化の交差点となった石狩低地帯には、東北北部の文化に接触することによって土器製法や鉄器加工法、古墳築造が導入されることになり、北広島近隣でも続縄文文化から擦文文化への移行期である多くの遺跡や遺物が発見されています。
擦文時代の終末期からアイヌ文化期への移行期にかけての遺跡は、道内でわずかしか発見されていません(羅臼町,オタフク岩洞窟)。アイヌ文化の重要な要素である「クマ送り」をたどると、オホーツク文化と擦文文化の接触によりアイヌ文化へと発展したのではないかと考えられます。
国指定史跡名勝天然記念物「江別古墳群」
11、12世紀頃から、「蝦夷」の読み方がエミシからエゾと変化します。源頼朝が征夷大将軍につくと、安東氏が朝廷に代わり支配する「蝦夷管領(えぞかんれい)」となりました。鎌倉時代から近世頃まで、北海道は蝦夷島(えぞがしま)、蝦夷が千島(えぞがちしま)と呼ばれ、そこに暮らすアイヌの人々を「渡党」、「日の本(ヒノモト)」、「唐子」と分類していました。
中世における蝦夷島概念図
桑原真人・川上淳『増補版 北海道の歴史がわかる本』
「渡党」は多くの歴史資料に記述が残っており、現在の函館や松前に暮らし津軽海峡を自由に往来し交易を行なっていました。「日の本」は千島列島やカムチャッカとの交易、「唐子」は北海道の日本海側に住むアイヌとみられ、「唐太(樺太)」につながる言葉からもわかるように、中国大陸との交易を意識して呼んでいました。