アイヌの人々の自然観と北海道の地名

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 17世紀に入って、蝦夷島に誕生した松前藩はアイヌとの交易によって藩を保ち、「蝦夷地」を幕藩制国家に組み込んでいきます。また、18世紀末頃から蝦夷地へ近づくロシアの動きが幕府の政策を大きく変えていきます。これによりアイヌ社会も大きな影響を受け、後に和人との衝突がおきます。
 伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図(1816)』、松浦武四郎の蝦夷地渡航記録をはじめ、江戸時代の探検家や測量隊が記した蝦夷地の地図には多くのアイヌ語地名が記されています。
 

「西蝦夷地石狩場所絵図」(幕末期作成)
北海道大学北方資料室所蔵
(赤丸箇所)シママフと3箇所記されている。
現在の旧島松駅逓所あたりと千歳川合流地点あたりと考えられる。
 
 アイヌの人々は、川や谷、岬や崖などに沢山の言葉を使っていました。その多くが現在の北海道の地名や河川名の由来になっています。アイヌの人々は、季節によって狩猟や採集のためのチセ[家]を持ち、海岸で漁労する居住点と内陸で狩猟や冬越しをする居住点との二重生活をすることもありました。その居住点との交通は主に川を利用していたので、アイヌの人々にとって川やそれをとりまく地形などの自然環境への理解は生命に直結することであり、そこに目印のように名前をつけたのかもしれません。
 川は、アイヌ語で「ベツ・ペツ」「ナイ」と二種類あります。「ベツ」は水かさが増すとすぐに氾濫してしまう危険な川、「ナイ」は岸がしっかりしていて、洪水に強い川を表しています。「ベツ」がつく川は、洪水の歴史や危険がある川かもしれません。北広島市内にも輪厚川、島松川、音江別川などアイヌ語が由来となっている川があります。