享保4年(1719)、幕府により松前藩主が蝦夷島の大名として正式に認められます。松前藩は「和人地」と「蝦夷地」で区別し、蝦夷地への和人の定住は禁止しました(運上屋は特例)。
その後、南下するロシアへの対抗策として、蝦夷地を東蝦夷地(1799)、西蝦夷地(1807)とに区分けて、江戸幕府が直接治める「幕府直轄地」となります(これにより松前藩は国替へ)。この時、島松川は東蝦夷地と西蝦夷地の境界の一部でした。
さらに幕末期(1855~)には、幕府は蝦夷地を東北六藩へ分け与え、開発と守衛を命じました(北広島は庄内藩の領地となりました)。
東蝦夷地と西蝦夷地(1800年当時)
桑原真人・川上淳『増補版 北海道の歴史がわかる本』
明治2年(1869)、明治政府は蝦夷地を「北海道」と改名します。同年、開拓使が設置され、北海道に中央政府からの巨額の資金が投入されます。その後明治15年(1882)に開拓使が廃止され函館・札幌・根室の3県が設置されます。しかし、行政上の運営の非効率により、明治19年に3県体制は廃止され、北海道庁が誕生します。
主な開拓政策としては、道路や鉄道、港湾、駅逓といった交通運輸手段の整備の他に、植民地の選定と調査・区割りの実施がありました。調査は、明治19年から10か年をかけ、大原野およそ34億坪の調査を完了し、その結果は『北海道殖民地選定報文』、『植民地区画図』として公刊されました。
「石狩国札幌郡月寒原野区割図(明治38年発行)」
北海道立図書館北方資料室所蔵
(赤丸箇所)札幌本道から東側に植民地計画があったことが記されている。現在の西部地区のあたり。
また、国有未開地の処分として、それまでの「北海道土地売貸規則(明治5年)」に代わり「北海道土地払下規則(明治19年)」が制定され、開拓者は道庁に事業計画書を提出し審査が通ると10万坪を限度に土地が無料貸付されました。開墾成功後は、1000坪1円(当時の物価指数から換算して現在の2000円程)で購入できました。