現地で見学・観察可能です。 直接見学はできませんが今でも様子がわかるものです。
1 東部 寺
無碍光寺(むげこうじ)
明治27年創立。浄土真宗大谷派のお寺です。もともとは字音江別の空き家を借受けて、北海道寺務出張所の僧侶が説教所を開いたのが始まりです。明治34年に現在の場所に移転しました。
所在地:共栄町5丁目1
2 東部 石碑
創世移民留魂塚
大正12年、和田郁次郎の出資、協賛多数により建立。和田が「創業時代に苦楽を共にした人達」のことを思い設置した。塚に刻まれているのは、明治17年に移住した人たちの名前です。
所在地:共栄町3丁目10
3 東部 石碑
岩間先生の碑
昭和4年、広島尋常高等小学校有志により建立。岩間鉄次郎は山形県から移住し、明治41年に広島尋常高等小学校の校長に任命されます。広島教育会、青年会、青年団の育成に尽力されました。
所在地:共栄町3丁目10
4 東部 石碑
彰徳碑(しょうとくひ)
大正7年、小池三郎(当時村長)や協賛400人程により建立。北海道開道50年の式典の際に、和田郁次郎が北海道の開発の功労者130名に選ばれたことを記念して建てられました。
所在地:共栄町3丁目10
5 東部 遺跡
共栄2~6遺跡
輪厚川左岸に位置し、縄文時代中期から晩期までの土器片・石器片・黒曜石片が出土しています。
所在地:共栄町1丁目3、2丁目2、3丁目1、4丁目7
6 東部 遺跡
美沢1丁目遺跡
輪厚川右岸の河岸段丘上から、縄文時代の土器片・石器片が出土しています。
所在地:美沢1丁目2付近
7 東部 開墾
大正橋
市役所から大曲へ向かい約800m。道道栗山北広島線と輪厚川が交差する所に大正橋が架けられています。この橋の歴史は広島村以前の開拓期まで遡ります。明治17年、和田郁次郎らが現在の北広島交番の辺りから札幌本道(今の国道36号)までの道を拓きました。その突貫工事で輪厚川に架けられた橋が始まりです。当時この橋はカツラの大木を対岸に向けて切り倒し、一本の木の上を渡ったことから一本橋と呼ばれていました。明治24年には村費で初めてとなる土を覆いかぶせた土橋に架け替えられました。その後、大正末期に架け替えられた際、「大正橋」と改名されました。
所在地:美沢3丁目9付近
8 東部 遺跡
中の沢B遺跡
標高約30mの丘陵の先端部にある、縄文中期から晩期にかけての竪穴住居を中心とした集落遺跡です。特に9号竪穴住居跡は直径4mの円形で、その床面から縄文中期後半の柏木川式土器が2個出土しました。遺物が出土した地層の花粉分析から、当時の気候は今より少し暖かく、針葉樹は稀で、ナラ・ハンノキ・ニレが主体でした。草本類の花粉化石も多く確認されています。
所在地:中の沢240-11(広葉通り沿い・広葉橋付近)
9 東部 遺跡
中の沢C遺跡
輪厚川旧河川跡に面する河岸段丘上にあります。縄文時代の土器片、黒曜石片が散布出土しています。
所在地:中の沢198-1
10 東部 遺跡
中の沢A遺跡、中ノ沢チャシ跡
縄文時代中期から後期の遺跡です。アイヌ文化期の「中の沢チャシ跡」と複合する遺跡です。
所在地:中の沢248
11 東部 遺跡
中の沢D、E遺跡
輪厚川右岸の河岸段丘上にあり、土器片、黒曜石片、石鏃(せきぞく)・石斧(せきふ)などが出土しています。
所在地:中の沢426、428、399-1
12 東部 寺
光顕寺
明治25年創立。浄土真宗本願寺派のお寺です。前身は、和田郁次郎が札幌から僧侶を招き明治20年に開いた説教所兼学校でした。明治25年に本堂が建立されました。
所在地:共栄町1丁目12
13 東部 遺跡
共栄1遺跡
台地上にあり、東に広がる低地帯からは約10mの標高差があります。縄文時代早期から晩期までの土器、石器が出土しています。焼土層も確認されています。また石斧や砥石が人為的に埋没した状態で発見されているのが特徴です。儀式や祭礼に用いられたと考えられます。
所在地:共栄町1丁目7付近
14 東部 教育
広島簡易教育所跡
東部小学校の前身である広島簡易教育所があった場所です。広島村における教育機関の創設は、明治25年、中の沢(現在の共栄町1丁目)に設置した広島簡易教育所に始まります。広島開墾地の戸数が280戸余りに達し、学齢児童が増加したため、教育所の設置が決まりました。その後教育所は、28年に広島尋常小学校となり、33年に高等科を併設し広島尋常高等小学校と改称。昭和9年には高台尋常小学校・音江別分教場の2校と統合して広島東部尋常高等小学校となり、同年、現在の東部小学校の場所に移ります。昭和22年には村立東部小学校に改称され、現在も市立小学校として歴史を刻み続けています。
所在地:共栄町1丁目13
15 東部
修景・冒険の池
中の沢地区に入植した人々の田を潤した溜池が現在はレクリエーションの森の修景・冒険の池になっています。明治25年、官林の一部を借りて溜池を作ったときは、近所の人たちが大勢来て、モッコに土を入れて天秤棒で担ぎ、沢の左右から土を盛って堤を築いたそうです。この原始林の溜池の水は2haの田を潤して、良い米が採れました。昭和38年頃まで使われていました。
所在地:北広島レクリエーションの森内
16 東部 石碑
開拓記念公園内の石碑
「飛躍の碑」
昭和59年、広島開拓団移入から100年を記念して建立されました。
「開村80周年記念碑」
昭和39年、和田郁次郎の功績を残すため建立されました。
「廣島村記念日唱歌」
昭和20年頃まで、開村記念日には広島神社境内で合唱されました。当時の様子を偲ぶ唱歌です。
「交流の翼」
平成8年、広島市と北広島市の野球少年団の交流の一環として建立されました。
所在地:中央2丁目5(開拓記念公園内)
17 東部 開拓
北広島始まりの場所 和田郁次郎邸跡
道道江別恵庭線が輪厚川と交差する所。明治17年、ここに最初の集落が形成され、和田郁次郎も居を構えました。当初の和田邸は、役場・子弟の教育所・郵便物取扱いの役を担い、やがて移住者が増えて住宅や商店が並び、郵便局や学校もこの一帯に置かれて村の中心となりました。その後、和田邸跡を記念して作られた広島小公園に、昭和39年の開村80周年記念事業で「広島村この地に始まる」と記された碑が建立しました。そこがまちの礎であることを、次の世代に伝える碑でした。しかし昭和59年、ひろしま100年を記念して作られた開拓記念公園(中央2丁目)に、碑や樹木は移設されました。
所在地:中央1丁目2(北広島交番付近)
18 東部 神社
広島神社
和田郁次郎は明治16年4月の来道の際に、伊勢の国に寄り伊勢神宮を参拝し、開墾農事の成功を祈願しました。その際に御神霊申し受け、これを村の守護神として明治17年に祠を建て祀ったことが始まりです。和田郁次郎の渡道の目的は、あくまで広島県人の村を北海道に建設することでした。和田はいかにして移住者の心を安定させ定住させるか、いかにして離散させないかという配慮から広島神社の建立と発展に力を注ぎました。
昭和20年頃まで、開村記念日の5月23日には例大祭が行なわれ、村民皆で開拓唱歌を歌い、村の繁栄を祝いました。現在でも「春まつり」として受け継がれ、5月23日にお祭りが開催されています。
所在地:中央4丁目3-1
19 東部 石碑
廣島開村碑
明治41年、全村民の寄附により建立。和田郁次郎が開村を志した明治16年から25年を経過したことを記念して建てられました。明治41年、人口は5千人になっており、田畑は、5500町も広がっていました。
所在地:中央4丁目3(広島神社境内)
20 東部 石碑
忠霊塔
昭和33年、広島村忠霊塔建立期成会により建立。太平洋戦争で亡くなった村内出身者100名の慰霊碑として建立されました。
所在地:中央4丁目3(広島神社境内)
21 東部地区 石碑
広島神社の狛犬
大正2年10月10日、字島松の和田郁次郎の小作地(和田農場)の小作人々が奉納しました。
所在地:中央4丁目3(広島神社境内)
22 東部地区 教会
カトリック北広島教会
札幌の大国元助と宣教師フヲリュにより、明治23年、和田郁次郎の宅地を借受け、中の沢に集会所兼仮聖堂を建てたのが始まりです。明治36年現在の場所に移転しました。
所在地:中央4丁目5
23 東部 寺
昌福寺
明治32年創立。日蓮宗のお寺です。広島開墾地(字音江別)の集落全体で協議し創立しました。創立当初は、南の里地区のホクリョウの近くに建っていました。
所在地:中央6丁目8
24 東部 石碑
富ケ岡会館の石碑
富ヶ岡は、昭和13年に字高台と字下音江別が合わさり誕生した地名です。昭和45年の団地造成の際、それまで高台に暮していた人々の多くがこの付近に移転し、昭和53年土地整理区画事業を経て新富町という地名が誕生します。
所在地:新富町東2丁目3(富ケ岡会館敷地内)
25 東部 開拓
戦後開拓碑(東の里地区の歴史)
昭和47年、広島町農業協同組合初代組合長藤田牟他130名により建立。昭和20年東京大空襲の戦災疎開者と、数十万人にものぼる戦後引揚者・復員者の食糧難の打開、就業対策として開発の遅れている北海道が疎開先として選ばれ、北広島(広島町)にも200戸の開拓者が送り込まれました。送り込まれたのは西の里(今の光原、新光、北光)、東の里地区、輪厚・竹山・高台地区、大曲地区でした。
西の里地区は野幌国有林内で、70戸入植。重粘度地帯で水に苦労しました。東の里地区に入植した開拓者は、何度も見放されてきた低地帯をあてられたため、毎年千歳川の氾濫にみまわれ苦労しました。輪厚、竹山、高台地区には約40戸、大曲地区には約40戸入植ましたが根曲竹に悩まされました。それらの人々の農業指導としてつくられたのが、広島村開拓農業組合(昭和23年)、富ヶ丘開拓農業組合、日進開拓農業組合(大曲)。それから17年ほど経って、3つの開拓農協は解散し、その役割を「広島町農業協同組合」が引き継ぎました。その記念として東の里にこの石碑が建てられました。
所在地:稲穂町東8丁目4(東公園の脇)
26 東部 遺跡
富ヶ岡D(北広島団地第2)遺跡、富ヶ岡E(北広島団地第1)遺跡
富ヶ岡D遺跡 富ヶ岡E遺跡
D遺跡(第2遺跡)では、縄文時代後期のピット17か所、住居跡3か所が発見されています。E遺跡(第1遺跡)はJR千歳線沿いにあり、縄文時代中期の土器片が出土しています。
所在地:青葉町3丁目、1丁目付近
27 東部 遺跡
富ヶ岡1、2遺跡
縄文中期から後期の土器片や石器が出土しています。長年の耕作により、遺物含有層が耕作土に取り込まれ、わずかしか出土していません。
所在地:富ヶ岡424-1、339-7
28 東部 遺跡
富ヶ岡3遺跡
富ヶ岡B遺跡と音江別川を挟んで対岸に位置しています。主に縄文時代早期から中期の土器片、石器及び石器片など約3000点出土しています。
所在地:富ヶ岡454、456
29 東部 遺跡
富ヶ岡A、C遺跡
音江別川右岸の河岸段丘上から、縄文時代前期から後期までの、土器片・石器・黒曜石片が出土しています。
所在地:富ヶ岡622、91-2ほか
30 東部 遺跡
富ヶ岡B遺跡(富ヶ岡遺跡)
音江別川右岸の台地上から、ピットや焼土層が出土し、焼土中からは火焼を受けた土器片などが2000点余り出土しています。石器は出土が少なく、100点ほど出土しています。縄文時代早期から晩期までのもが出土しています。
所在地:富ヶ岡687、688-1
31 東部 神社
竹山神社
明治38年頃建立。ご神体は春日大社と書かれた木札ですが、神社としては珍しく、毘沙門様の像が祀られ、両側には仁王像が二体置かれています。毘沙門様と仁王像は後に合祀されたものですが、竹山に最初に入植した長南清三郎ら竹山地区の人々によって大切に守られてきました。
所在地:富ヶ岡538
32 東部 石碑
竹山神社の石碑
明治38年建立。竹山に入植した長南清三郎と交流のあった白石村の斉木岩次郎の所有だった毘沙門様を、明治38年に竹山神社に合祀した際に、この石碑は建立されました。合祀は、斉木さんの夢枕に毘沙門様が立って竹山に祀って欲しいとお告げがあった、という話に感動した長南さんの好意によるものでした。
所在地:富ヶ岡538
33 東部/団地 寺
高台にあった正覚寺
明治34年創立。真宗大谷派のお寺でした。現在の北広島団地の高台町あたりは、明治36年当時の公文書に字高台と記載があるように、明治の開拓期に拓かれた集落があり、正覚寺というお寺がありました(現在の高台5丁目付近)。しかし、昭和36年正覚寺は閉じ、字高台は昭和45年道営北広島団地の敷地内となり、集落全員が移転することとなりました。
所在地:現在の高台町5丁目付近
34 東部 地蔵尊
富ヶ岡地蔵尊
もともとは字高台にあった正覚寺の前に立っていたお地蔵様です。字高台に初めて入植したのは、明治19年に福井県から入植した白崎小吉で、当初は和田郁次郎の小作人として字音江別(現:南の里)に入り資金を蓄え、明治25年に字高台にあった和田郁次郎の土地を付与されて自家農業を始めました。80年近く字高台の集落の人々を見つめてきたお地蔵様でしたが、団地造営により集落全体が移転される際に、白崎家に引きとられ現在の場所に立っています。
所在地:私有地のため立ち入りはできません。
35 南の里 遺跡
南の里3~13遺跡
JR千歳線の東側、道道江別恵庭線沿いの平坦面から、縄文時代前期~中期までの土器片・黒曜石片が出土しています。
所在地:南の里434-1、32、66ほか
36 南の里 遺跡
南の里2、14、15遺跡
道道江別恵庭線の改良工事の際に発見されました。縄文時代早期~晩期、続縄文時代の竪穴住居跡が合わせて5か所、土器片や石器、屋外炉跡、焼土などが出土しました。
所在地:南の里434-1、595-1、191-3
37 南の里 神社
音江別神社
かつて字音江別(オテネベツ)は非常に広い地区でした。音江別川を境に以北は中の沢まで、以南は字島松まででした。音江別神社はこの字音江別に入植した人々によって明治33年に建立された神社で、ご神体は広島神社の御分霊です。境内には樹齢100年以上のカシワの大木があります。
所在地:南の里538
38 南の里 教育
音江別簡易教育所門柱
明治33年から4年間、字音江別には簡易教育所がありました。その当時の門柱が残っています。
所在地:南の里538(音江別神社境内)
39 南の里 石碑
音江別神社境内の馬頭観音
大正11年建立。かつては他の場所にありましたが、昭和40年頃ホクリョウ建設に伴う道路拡幅によって現在地に移されました。
所在地:南の里538(音江別神社境内)
40 南の里 石碑
三上先生之碑
大正11年建立。明治20年頃音江別神社周辺に入植したのは、三上順一の父、元津軽藩主の道春でした。開墾当初は戸数88戸、人口387人まで栄えており、明治33年には簡易教育所の設置が認可されました。しかしすでに、明治28年には三上順一先生を中心として寺子屋式教育が始められていました。音江別の地を自ら開墾し、その地で成人し、自らの土地を学校用地として寄附して、教鞭をとった先生を偲び、字音江別の人々によって建立されました。
所在地:南の里538(音江別神社境内)
41 南の里 開拓
音江別神社の鳥居
広島村に初めて汽車が走ったのは、北海道鉄道株式会社の鉄道が苗穂・沼ノ端間に開通した大正15年。同年、北広島駅も開設されました。鉄道敷設工事の際には作業員の宿舎が、現在の音江別神社にほど近い場所にありました。工事の終わりを記念して音江別神社に鳥居が建てられました。その鳥居の芯(しん)棒には、工事で使用したトロッコ用のレールが使われました。現在の鳥居は、平成9年道道江別恵庭線の拡幅に伴い建て替えられたものです。
所在地:南の里538(音江別神社境内)
42 南の里 開拓
南の里の防風林
南の里の広島幹線1号線を走ると、防風林の中でひときわ輝く葉を付けた一群の木立があります。その木は「ウラジロハコヤナギ」とも「ギンドロ」とも呼ばれています。南の里地区の圃場整備事業は昭和54年から始まりましたが、圃場整備組合の中に防風林管理組合を作り、互いに農地を供出して防風林用地を生み出しました。樹種には成長が早く葉の美しいギンドロを選び、57年から58年にかけて地元農家によって植えられました。
所在地:富ヶ岡、南の里の広島幹線1号線沿い
43 南の里 遺跡
南の里1遺跡
島松川に面した段丘上にあり、縄文時代の土器片や黒曜石片が出土しています。
所在地:南の里115-4
44 南の里 遺跡
南の里16遺跡
縄文時代後期~晩期の土器片が出土しています。
所在地:南の里213-1
45 南の里 開拓
廣和魂 こうわこん
大正6年に建立。「廣和魂」の由来は「廣島村、和田郁次郎の開拓魂」という事で、昭和22年までこのあたり一帯(島松川両岸に沿って)40町ほどが和田郁次郎の土地でした。和田農場と呼ばれ、明治30年頃に和田が開いた小作地がありました。明治27年に広島村を開村し、和田農場は新たに始めた開墾事業だったのかもしれません。島松川で田畑が水に浸かった被害があった時も、和田が自費で復旧させたといい、そんな和田へ恩義を感じた
小作人の人々が建てた石碑です。
所在地:恵庭市下島松853付近、私有地のため立ち入りできません。