中山久蔵は文政11年(1828)、河内国石川郡春日村(現大阪府南河内郡太子町)で松村家次男として生まれ、弘化2年(1845)、17歳で故郷を離れ大阪、江戸など諸国を巡ります。嘉永6(1853)年に身を寄せた仙台藩が蝦夷地警備の任務を与えられたため、安政2(1855)年、藩士片倉英馬の従者として胆振国白老郡白老に渡り、以後、白老・仙台を行き来した後、明治2(1869)年に北海道永住を決意。片倉家を辞して渡道します。
中山久蔵(1828-1919)
明治4年(1871)、久蔵は44歳で島松沢にて開墾を始め、寒地では困難とされた米づくりにも挑戦。明治6年(1873)、大野村(現北斗市)から取り寄せた「赤毛」を用い、川の水を温める水路(暖水路)や、風呂の湯を水田に注ぐなど、工夫と努力により米の栽培に成功し、10アール(約300坪)当たり345kgを収穫。希望者にはその技術と赤毛の種籾を無償提供した久蔵の功績は、米づくりを道央以北へと普及させました。やがて、北海道の米の取れ高は100万石(15万t)に成長したことから、島松沢は「寒地稲作発祥の地」と呼ばれます。
旧島松駅逓所敷地内の暖水路跡
明治14年(1881)の明治天皇北海道巡幸では、久蔵宅が行在所に指定され、久蔵は天皇と直に米づくりについて言葉を交わしました。近年、美味しくなった道産米のルーツは、中山久蔵が改良した赤毛種の種籾。久蔵の挑戦は、北海道農業を豊かにしただけでなく、生活文化や食文化をも変えることになりました。
赤毛種