現地で見学・観察可能です。 直接見学はできませんが今でも様子がわかるものです。
17 西部 神社
輪厚神社
大正9年合祀建立。明治初期の開拓期、日本全国から北海道開拓を志し入植した人々がいました。西部地区にも多くの入植団がいました。字上ニーベツ・下ニーベツには宮城県から三野宮正助ほか。明治27年月寒原野払い下げ後の「輪厚植民地」に福井県より新井喜八郎ほか。明治35年奥輪厚に福井県から河村玉蔵ほか。明治36年に輪厚の室蘭街道沿い(野島の坂付近)に野島源一郎ほか。それぞれの集団で神社を建立し五穀豊穣を祈願しました。それら4つの神社を合祀し、現在まで受け継がれているのがこの輪厚神社です。合祀された神社の為、八幡大神・天照皇大神・大國主大神と3つのご神体が祀られています。
所在地:輪厚115
18 西部 寺院
照道寺と輪厚尋常小学校
布教のため越後からきた曽我師は輪厚地区に来ましたが、明治30年当時、この地区に寺院も学校もないのをみて、説教場兼学校を建てたのが始まりです。当初15人だった生徒も明治32年には54人にまでなり、より一層充実した教育のため、寺と学校を分離することにします。後の西部小学校になる簡易教育所・輪厚尋常小学校へと発展します。
所在地:輪厚元町1丁目6
19 西部 神社
札幌八幡神社
江戸時代から代々函館八幡宮の神職の家系であった菊地家は、後に札幌神社(現北海道神宮)宮司になります。その後、明治新政府による「王政復古・祭政一致」の方針により、宮司の世襲が認められなくなり、菊地家は神社庁の神道から離れ、転居を経て現在の輪厚に昭和52年6月札幌八幡宮を建立します。現在の宮司は15代目、学問・出世の神様である菅原道真公を祀った神社です。
所在地:輪厚中央5丁目3-16
20 西部 教育
陶製の二ノ宮金次郎像
西部小学校の二ノ宮金次郎像は、始めは金属でできていましたが、第二次世界大戦が始まり供出され、戦後間もなく作られたのがこの二宮金次郎です。備前焼でできたとても珍しいもので、現在地に新校舎を建てた時に移設され、受け継がれています。
所在地:輪厚508-3 西部小学校校門付近
21 西部 開拓
山本家発祥の碑
山本家は富山県から、輪厚のこの場所に明治31年に入植しました。現在は牧場を経営されています。このように各家が入植当時の苦労を記した石碑は、北広島市内にいくつもあり、開拓の地北海道らしい石碑です。
所在地:輪厚(上輪厚線沿い)、私有地の為立ち入りはできません。
22 西部 開拓
輪厚川源流、湧水地点
湧水(ゆうすい)、湧き水にはいくつかのタイプがありますが、丘陵地では主に河川の流域の谷頭(こくとう)地形の場所にみられます。大曲地区は、大曲川、輪厚川、中の沢川などの支流の上流域にあるため、記録にも小さな泉が点在していたと伝えられています。その名残をみることができる小さな湧水地点で、輪厚川の源流になります。
所在地:仁別245付近、道道仁別大曲線-上輪厚線交差付近
23 西部 神社
上仁井別神社(仁別神社、仁別八幡神社)
明治30年に字上二ーベツの人々により建立されました。大正11年に現在の場所へ移転。平成9年に現在の社殿に新築されました。
所在地:仁別95付近
24 西部 地蔵尊
島松坂地蔵尊
このお地蔵さまは、昭和24年頃、島松で暮らしていた石工の浅野興作氏がこの地を離れる際、自ら刻んだお地蔵さんに部落の人々の幸せと安全の祈りを託し、建立したのが始まりです。現在のお地蔵さまは、平成20年頃新しくしたもので、以前のものと違いますが、この地区の人々の幸せと安全、交通安全の祈りを託されています。
所在地:島松279付近
25 西部 神社
下仁井別神社(仁井別神社)
始めは現在の西部小学校付近に建立されましたが、明治45年に島松に移転、その後現在の場所に平成7年に移転、社殿も改築されました。その後も字下二一ベツの人々に大切に守られてきました。
所在地:島松632付近
26 西部 石碑
御大禮記念碑
御大禮記念碑は旧島松駅逓所前にもありますが、同じく昭和3年に建立されました。大正天皇が崩御され、昭和天皇即位御祝するため建立されました。
所在地:下仁井別神社(仁井別神社)境内
27 西部 遺跡
島松C、D、E、F遺跡
どれも仁井別川沿いの河岸段丘上から出土しています。土器片の他、石槍(いしやり)、石鏃(せきぞく)、石包丁などが出土しています。
所在地:島松44-1、島松38-1
28 西部 神社
極応寺跡
明治31年、白石村説教場の中條師が、一寺建立を志し、仁別地区に入り布教活動を行ったのが始まりです。明治34年に現在の場所に移転しました。現在、お御堂は残っていません。
所在地:島松563付近
29 西部 地蔵尊
極応寺跡にある延命地蔵
もともとは三別(現在の三島地区の奥)に建てられていましたが、今から80年くらい前にこれを立てた藤本氏が、三別から引っ越すことになりました。その時籐本氏の夢枕にこのお地蔵さまが出てきて、「三別に残りたい」と言ったので、そのまま残したそうです。その後、三別はだんだん住む人が少なくなり、お地蔵さまの維持・管理が難しいということで、極応寺に移設され安置されました。
所在地:島松563-1付近
30 西部 石碑
御大禮記念碑
大正天皇が崩御され、昭和天皇即位を御祝いするため、広島青年団行在所守護分団員らにより昭和3年建立されました。
所在地:旧島松駅逓所前
31 西部 石碑
中山氏の馬頭観世音菩薩
明治18年9月建立。
旧島松駅逓所の側、島松川にかかる橋のたもとに建っています。かつての札幌本道沿いにあり、行き交う人馬の安全を祈り建立されました。
所在地:恵庭市恵庭島松沢136付近
32 西部 石碑
国指定史跡旧島松駅逓所内の石碑
「青年よ大志を懐け」クラーク記念碑。昭和25年建立。クラーク博士(札幌農学校教頭)が島松で学生・職員と決別した地を記念し、北大のクラーク奨学会によって建立されました。
「寒地稲作この地に始まる」の碑。昭和39年建立。開村80周年を記念し、中山久蔵ゆかりの地に建てられました。
「駐蹕處(ちゅうひつしよ)」の碑。明治23年11月建立。中山久蔵宅が明治天皇島松御昼行在所に指定されて10年目を迎えこれを記念し建立されました。書は、北海道長官永山武四郎。
「中山久蔵翁頌徳記念碑」の碑。大正6年建立。寒地稲作を成功させた中山久蔵の功績を称え、発起人の和田郁次郎ら始め、百数十名の協賛を得て建立。二年後の大正8年に中山久蔵は92歳で亡くなりました。
所在地:旧島松駅逓所敷地内
33 西部 教育
島松川上小学校跡
前身は島松尋常小学校特別教授所。その後の変還を経て大正2年恵庭町立島松川上小学校となります。自衛隊島松演習場の関係で校舎移築が決まり、昭和31年、現在門柱が残る場所に移築されました。このときの児童数は男子11人、女子14人の計25人でした。しかし転出者が多く、児童数も減ったため昭和36年に廃校となりました。この地でのわずか5年間の学び舎でしたが、当時の賑やかな地区の記憶を門柱が残しています。なお、現在は校門は撤去されています。
所在地:三島61-4付近、島松沢会館付近
34 西部 神社
三島神社の参道跡
大正4年建立。かつて島松山付近には「石川開墾」と呼ばれていた地区がありました。石川県からの入植者が開いた地区で、現在の三島地区(恵庭市一部含む)、三別地区、仁別地区が範囲でした。ご神体は郷里石川県から運び、その川上(かわかみ)の3地区合同で建立された神社です。三別地区と三島地区の両側から参道が伸びて、尾根に建てられた社殿へとつながり、山間地区ならではの佇まいでした。しかし、昭和30年頃に神社は閉じられ、三島地区からみえる参道の跡が当時の様子を偲ばせています。
所在地:三島297付近、個人宅敷地内の為無断での立ち入りできません
35 西部 石碑
三島の馬頭観世音菩薩
昭和初期建立。明治の末三島に入植した津田氏は後に16町歩もの畑を開墾する精農家でした。あるとき飼っていた馬が3頭連続で亡くなる事件がありました。馬は農業にはなくてはならない存在、その馬が1年に3頭も亡くなるのは何かの「たたり」ではないかと心配し、亡くなった馬の霊を慰め飼っている馬の健康と安全を願って建立しました。この碑の近くには、昭和30年建立の「天地山神」の碑があります。島松山の麓・三島で造林事業を志した福永造林有限会社が建立しました。
所在地:三島600、クラブ場入り囗付近の道脇
36 西部 地蔵尊
ほおかぶり地蔵
昭和18年頃建立
【きたひろしま昔話へ】
所在地:島松82付近、道脇
37 西部 遺跡
島松A、B遺跡
A遺跡では、縄文中期~晩期の土器片、石斧(せきふ)、石錐(せきすい)などの遺物が多数出土しました。B遺跡では縄文時代の黒曜石片が出土しました。A,B遺跡ともに島松川左岸の段丘上から出土しています。
所在地:島松44-1、島松38-1
38 西部 遺跡
島松川左岸チャシ跡
アイヌ文化期の遺跡です。チャシとはアイヌの人々が砦(とりで)や館(やかた)、柵(さく)として造ったもので、北広島では低い尾根山(丘頂部)にみられます。市内では中の沢チャシ跡とあわせて2か所発見されています。
所在地:島松44付近、私有地の為立ち入りできません。