北の里の開拓者

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 北の里の開拓は、明治17年に広島県から集団入植をした23戸の一人、岸本權平らによって開拓されたのが始まりです。ホロウンベツ川(裏の沢川)周辺の樹木の比較的少ないところに家を建て、畑を拓き、明治19年に川下に用水路を開き、低地帯の茅原(かやはら)を排水して水田を作りました。
 この地区では、一戸あたり一万坪を開墾用地として地割されました。またそれとは別に、造田用として一戸あたり五反歩、幅十五間(約27m)、奥行き百間(約180m)ずつを川下の南側に15区画、北側の低地に9区画を地割され与えられました。この由来から「五反歩地区」と呼ばれています。取水は、ホロウンベツ川に杭を打ち、小さな堤防をつくり分水し造田しました。五反歩地区は、北広島で最も低い場所で、千歳川と旧島松川と裏の沢川が合流する地点にあり、少しの雨でもすぐに氾濫し、この地区一帯が水没したと伝えられています。
 

入植当時の開墾用地と五反歩の水田の位置
 
 その後、広島県人だけでなく、福井県・岩手県等からの入植が続き、この五反歩以外の低地と共栄の下地(現在の東の里地区)が開墾されていきました。しかし明治末期には、深刻な水害やホロウンベツ川の水量不足もあって、五反歩地区の水田は全て荒廃してしまい、大正から昭和初期までは一面の葦原となり、夏は馬の肥料用、初冬には雪囲い用の葦刈り場になっていました。
 北の里の原野が全て水田に変わったのは、戦後のことです。「拓北地区」の原野を開田することになり、昭和24年には千歳川から取水する水門の建設を広島村農協が共同で施工し、拓北地区の造田が一気に進みました。