明治十四年(一八八一)十勝に発生したバッタの大群はだんだんと広がって、八月には札幌へかなりの数がとんできて卵をたくさん生みつけました。明治十五年この卵がかえりはじめたので、バッタの羽がはえないうちにとらえるため、多くの人が雇われたのです。広島では明治十五年「バッタが波のようになってきて、野原も黒くなった。」と、中山久蔵さん(島松)が書いています。その年五月二十七日から八月十二日まで、徳島県移住旅行の人々十二家族、(四十二人)を、バッタとりの人夫として世話をしたとも書かれています。広島に移住した人では、岸本トモさんが父権平さんにつれられて、月寒のバッタとりに行ったそうです。バッタを入れる袋をもらい、袋いっぱいになると土を掘ってうめたということです。道内にはそのバッタ塚や溝が残っているところがあります。